警部の選択

「あのさ……感動的なシーンに水を差すようで悪いんだけど、ちょっといい?」


 木場のスーツの裾を引っ張り、声をかけてきたのは茉奈香だった。木場が顔を上げると、茉奈香は駐車場の反対側を指差していた。木場もその方に視線をやったが、途端に目を丸くした。白い軽自動車から、桃子と久恵が降りてくるのが見えたのだ。


「桃子ちゃん!?」


 木場が思わず声を上げた。ガマ警部が弾かれたように振り返る。桃子はあまり気が進まさそうに、久恵はそんな桃子を押し出すようにしながら、少しずつこちらに近づいてくる。


 木場と視線が合うと、久恵は首を少し傾け、上品な微笑みを浮かべて見せた。ケープのような形をした白妙のコートの下に、浅葱色の着物を合わせている。昨日別れた時点では、病人のように青白かった顔には生気が戻り、頬にもうっすらと紅が差している。桃子の方は、いつものダウンジャケットにジーパン姿だ。ポケットに手を突っ込み、居心地悪そうに視線を左右させている。決してガマ警部の方を見ようとしない。


 木場の眼前まで来たところで久恵は立ち止まった。両手を臍の下で揃え、深々とお辞儀をする。


「木場刑事様……このたびは主人が大変お世話になりました。本当に、何とお礼を申し上げればよいか……」


「い、いえそんな。自分は何もしてませんよ。たまたま運がよかっただけです」木場が後頭部に手をやって謙遜した。「それより桃子ちゃん、釈放されたんですね?」


「ええ、昨日の晩に、警察の方から連絡がありまして。取り調べが終わったため、迎えに来るようにとのお話でした。木場刑事様も、桃子からお話を聞いてくださったのでしたね?」


「はい。桃子ちゃんが話してくれたおかげで、事件の全容がよくわかりましたよ。桃子ちゃん、本当にありがとうね」


「……別に、お礼言われるようなことじゃないから」


 桃子は無愛想に言うと、ばつが悪そうに視線を逸らした。木場は思わず相好を崩した。本当にこの子はガマさんそっくりだ。


「……桃子」


 ガマ警部が小さく声を上げた。桃子はびくりと肩を上げ、恐る恐るガマ警部の方を見た。

 ガマ警部は娘の顔をじっと見つめた後、小さくため息をついて言った。


「木場から話は聞いた。お前にも随分と世話をかけたようだな。それにあの、楓という子のことも……。

 考えてみれば俺は、今までお前にきちんと詫びたことがなかった。それに気づかず、8年間も抜け抜けと過ごしていたとは、まったく、ろくでもない父親だな……」


 ガマ警部は自嘲したような笑みを漏らしたが、すぐに真顔に戻って続けた。


「お前が俺と一緒に暮らすことを拒んだ時、俺は最初、理由がわからなかった。もちろん、あの楓という子がお前の親友だったことは知っていた。だが、俺のあの行動は、お前を心配してしたことだ。お前は理解してくれていると思っていた。

 だから……正直なところ、俺はショックだった。お前にそこまで恨まれる理由がわからなかったんだ」


 ガマ警部はそこで言葉を切った。顔がいっそう険しくなり、再び小さくため息をつく。


「だが……今回、総十郎が罪を犯したと知ったことで、俺は自分がいかに独りよがりだったかに気づかされた。俺は正義を追求するために警察官になったはずだった。だが、俺は組織のルールから逸脱し、手前勝手な正義を振り翳していただけだ。そのために2人の人間が死に、1人は罪人となった。何が正義だ? 馬鹿げた話だ」


 ガマ警部がふんと鼻を鳴らす。平静と変わらぬ態度を装ってはいるが、彼がこの3日間、どれほどの心痛を抱えてきたかは木場にも想像がついた。


 しばらく押し黙った後、ガマ警部は不意にふっと息をついた。天を仰ぎ、吹っ切れような表情で続ける。


「この仕事に就いて30年になるが……俺もそろそろ、足を洗う時が来たのかもしれん。無自覚な正義は、悪よりもたちが悪い……。今回の事件で、俺は嫌というほどその事実を思い知らされた。気づくのが遅すぎたかもしれんが……今からでも間に合わんことはないだろう」


「え、そんな……。ガマさん!?」


 突然の引退表明に、木場は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてガマ警部を見つめた。一方桃子はと言えば、顎を引き、上目遣いにガマ警部を睨みつけている。


 ガマ警部は遠い目をして頭上に広がる青空を見つめていた。抜けるような蒼穹そうきゅう。だが、今ガマ警部の目に映る光景は、何もかもが灰色にしか見えないのだろう。


「桃子、今までのこと……すまなかった」


 ガマ警部がようやく視線を下げた。渋面に深い悔恨が刻まれている。


「俺は父親として、お前のために何1つしてやれることができなかった……。だからせめて、これ以上お前と同じ苦しみを味わう者が出んよう、俺は警察を辞することにする。こんなことで罪滅ぼしになるとは思えんが……これが、今の俺に出来る精一杯の償いだ」


 ガマ警部はそう言うと、桃子に向かって深々と頭を下げた。

 木場は途方に暮れてその姿を見つめた。もしかしたら、ガマ警部は最初からそのつもりだったのだろうか。自分が有罪になろうがなるまいが、どのみち刑事を辞めるつもりで――。

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