さらば友よ

 1時間ほど車を走らせたところで、木場達は署に到着した。扉を開けて車を降りると、ちょうど花荘院もパトカーから降りたところだった。手錠をかけられているにもかかわらず、その佇まいは相変わらず威風堂々としている。周りの警官達が門下生に見えるくらいだ。

「あ、お兄ちゃん、あれ見て!」

 助手席から降りてきた茉奈香が前方を指差した。電車で帰るように言ったのだが、署まで一緒に行くと言って聞かなかったのだ。

 木場が前方を見やると、警視庁の正面玄関からガマ警部が出てくるのが見えた。両の手をズボンのポケットに突っ込み、ずんずんとこちらに向かって歩いてくる。留置場で見せた窶れた様子は微塵もなく、いつのように鋭い眼光を飛ばしている。

 泣く子も黙る鬼刑事。その姿は紛れもなく、木場がよく知るガマ警部のものだった。

「ガマさん……」

 木場は感慨深そうに呟いた。普段は恐縮するしかないその仁王のような顔を見ても、今心に浮かぶのは安堵と懐かしさだけだ。

「ガマさん!」

 木場は感極まって駆け出そうとしたが、後ろから誰かにスーツの襟首を掴まれた。前に向かってつんのめったが、すんでのところで転倒を免れる。思わずふうーっと息をついた後、じろりと後ろを振り返った。こんな危ない真似をする人間は1人しかない。案の定、茉奈香がスーツの襟首を掴んだ格好のまま立っていた。

「茉奈香、何するんだよ!? 自分、ガマさんにお祝いを言いたいんだよ!」

 木場が腹に据えかねた顔で叫んだ。さっきはついほだされたが、ここまで来て邪魔をされるわけにはいかない。

 だが、茉奈香は悪びれた様子もなく、かえって呆れたように息をついた。

「もう……お祝いを、じゃないでしょ。ちょっとは空気読みなさいよね」

 木場はきょとんとして茉奈香の顔を見返した。だが、すぐにここにいるもう1人の人物を思い出し、はっとして前方を振り返った。

 駐車場に向かって歩いてきたガマ警部は、木場のすぐ傍まで来ていた。その視線は木場の――木場の1メートルほど前にいる、花荘院の方に注がれていた。

「総十郎……」

 ガマ警部が呟いた。花荘院が声に気づいて足を止め、ガマ警部の方を振り返った。周りの警官がガマ警部の存在に気づき、背筋を伸ばして敬礼する。だが、ガマ警部は警官達には目もくれず、花荘院だけを一心に見つめていた。

「次郎……」

 花荘院が呟いた。そのままガマ警部の方に向き直り、無言のまま彼を見返す。

 ガマ警部は何も言わなかった。罠にかけられたことへの恨み言も漏らさず、悪に手を染めた旧友への失望も見せず、ただ例の射るような視線で花荘院を見上げている。

 それは花荘院も同じで、突然現れたガマ警部を前にしても動揺も感傷も見せず、ただ例のいかめしい顔で彼を見下ろしている。気詰まりな空気に耐えきれなくなったのか、周囲の警官がちらちらと視線を交わし始める。その重い沈黙が、2人を隔ててきたものの大きさを物語っているように思えた。

「……すまなかった」

 ガマ警部が不意に呟いた。ズボンのポケットから両手を出し、花荘院に向かって頭を下げる。花荘院が瞠目してガマ警部の姿を見返した。

「……何故、お前が謝る? 謝らなければならないのは私の方だ。私はお前に、取り返しのつかない罪を背負わせるところだった。……お前は私の、ただ1人の友人だったというのにな」

 花荘院が自嘲気味に笑みを漏らしたが、ガマ警部は笑わなかった。頭を上げ、憮然とした表情で駐車場の地面を睨みつける。

「……俺は何も、13年前のことだけを言っているわけじゃない」

 ガマ警部が唸るように言った。渋面にますます皺が刻まれ、表情に暗い影を落とす。

「……総十郎、お前は俺とは違う世界に生きる人間だった。由緒正しい家柄に生まれ、華道の家元としてその名を馳せ、多くの弟子の畏敬をその身に集めていた……。人間の薄汚い側面を見ることも、被疑者やその家族、あるいは遺族から罵倒を浴びせかけられることもなく、ただ花を愛で、穏やかに日々を送っていればよかった……。

 だが、俺は……そんなお前を犯罪者にしてしまった……。それだけが、悔やんでも悔やみきれん」

 そう言ったガマ警部の顔には、狂おしいほどの悔恨が浮かんでいた。そんなガマ警部の顔を見るのは初めてで、周囲の警官が土下座した仁王像を見るような目でガマ警部を凝視した。花荘院もさすがに驚いたのか、瞠目して警部の顔を見返している。あの薄暗い留置場の中で、彼は二重の罪の意識に苛まれていたということか。

 張りつめた空気が周囲に漂う中、不意に誰かがふっと息を漏らした。ガマ警部が顔を上げる。

 声を上げたのは花荘院だった。口元を緩め、目を細めてガマ警部を見下ろしている。

「……次郎、お前はやはり昔から変わらんな。口を開けば憎まれ口ばかりで、本当に伝えるべき言葉は最後まで伝えられん……。そんな性格だから、いつまでも友人が出来んのだ」

「……お前にだけは言われたくないな」ガマ警部がじろりと花荘院を見やった。「お前の方こそ、その顔のせいで全く他人が寄りつかんかったんじゃないか。せめて人前に出る時くらい、少しは愛想良くしたらどうだ?」

「……その言葉、まずは鏡に向かって言うことだな」

 花荘院が言った。ただの口喧嘩としか思えない、憎まれ口の応酬。だがそれは、ガマ警部と花荘院の間にかつて存在した、友情の面影を垣間見せていた。きっと若い頃には、これと同じようなやり取りを幾度となく交わしたのだろう。

 木場はだんだん居たたまれなくなってきた。この2人は、今でも心が通じ合っている。

「……次郎、お前と私がこうして言葉を交わすのも、おそらくこれが最後になるだろう」

 ガマ警部が何かを言い返そうとするのを見て、花荘院が制するように言った。瞑目し、噛み締めるように続ける。

「本当に伝えるべきことほど、含羞がんしゅうが先立ち、最後まで伝えられぬもの……。だが私は……もうこれ以上、過ちを繰り返したくはない。だから……最後に、最も肝要なことを、お前に伝えておくことにする」

 花荘院はそう言って目を開けた。ガマ警部をまっすぐに見つめ、迷いのない口調で告げる。

「……次郎、お前は私の生涯で、ただ1人の友と呼べる存在だった。どの口が言うのかと……そう罵られても構わん。

 だが……かつて私がお前に感じていた情は、間違いなく友情と呼べるものだった。愚かな友人の戯れ言として……覚えておいてくれるか?」

「……あぁ」

 ガマ警部が低く言った。心なしか、その表情は最初よりも和らいで見えた。

 木場は遠巻きに2人を眺めながら、自分が泣きそうになっていることに気づいた。でも、本当に泣きたいのはガマ警部達の方だろう。13年間の歳月を経て、かつて友情を交わした2人は、あまりにも遠い存在になってしまった。どれほど言葉を交わしても、彼らを隔てていた溝が完全に埋まることはないだろう。

 だけど、ようやく交わせた本心が、心の距離を少しでも縮めていればいい――。こみ上げる嗚咽を堪えながら、木場はそう願わずにはいられなかった。

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