終章

色褪せぬ思い出

 その後、木場は署に連絡して事の顛末を伝えた。ちょうど近くを巡回していたらしく、20分ほど経ったところで花荘院邸にパトカーが到着した。


 手錠をかけられ、連行される段になっても花荘院は落ち着き払ったままだった。むしろ取り乱していたのは若宮の方だ。どやどやと屋敷に入ってくる警官達を、聖域を踏み荒らす野獣を見るような目つきで睨みつけた上、師匠に手錠をかける警官に対しては、相手を呪い殺してしまうのではないかと思えるほど峻烈な眼光を浴びせかけた。優面をしたその警官は、容赦のない若宮の視線に晒され続け、暑くもないのに大量の汗をかいていた。


 警官を伴った花荘院が板の間の廊下を渡り、庭の砂利を踏みしめて行く間も、若宮は忠犬のように彼の傍を離れようとはしなかった。周囲の警官達が気まずそうな視線を交わしたが、下手なことを言えば余計に彼の神経を逆撫ですると思ったのか、ただ門へと向かう歩調を早めただけだった。


 花荘院は大人しく彼らに従っていたが、池を横切ろうとしたところで不意に立ち止まった。池の方に視線をやり、水鏡に映る木々を見つめた後、頭上にある本体の方へと視線を移す。その目はまるで、眼前にある光景ではなく、どこか遠い記憶の世界を彷徨っているように思えた。池の中にいる錦鯉は、主人がこれから辿ろうとしている運命など露知らず、優雅に泳ぎ続けている。


 警官達は困惑したように顔を見合わせていたが、1分ほど経ったところで1人が花荘院の肩に手を置いた。振り返った花荘院に向かい、門の方に顎をしゃくって見せる。花荘院は黙って頷くと、今一度池の方に視線をやり、名残惜しそうに門に向かって歩き出そうとした。


 その時だった。不意に一陣の風が巻き起こり、庭の木々を揺らしたかと思うと、幾重もの葉がはらはらと花荘院の頭上に降り注いだ。黄色や緑、そして紅の葉が花吹雪のように空を舞い、音もなく彼の足元に落ちていく。それはまるで、主人との別れを惜しんだ屋敷が、主に向けて最後のはなむけを送っているように思えた。


 花荘院は再び立ち止まると、地面に折り重なる無数の葉を見つめた。しばらく逡巡する様子を見せた後、ゆっくりと屈み込み、足元に落ちた一枚の葉を拾い上げる。紅に染まる楓の葉。花荘院が大切に育て、慈しみ、そして彼を罪業の沼から救い出した1枚の葉。


 花荘院はしばらくその葉を見つめていたが、不意に横にいる警官に向かって尋ねた。


「すまないが……これを留置場に持参しても構わないだろうか?」


「え? この葉をですか?」警官が面食らった顔で聞き返した。


「そうだ。万が一、留置場に葉の持ち込みが禁止されているということであれば、無理にとは言わないが」


「いや、そんなルールはありませんけど……。でも、そんな葉っぱ1枚持って行ってどうするんです? すぐに枯れるだけですよ」


 花荘院は答えなかった。警官は他の警官と訝しげな視線を交わしたが、これ以上無駄な議論をしたくないと考えたのか、花荘院から葉を受け取ると彼の紋付きの懐に入れた。そのまま門の方まで彼を連行する。


 木場は茉奈香と並んで庭園に立ち、遠巻きにその光景を眺めていた。一連の花荘院の行動を、木場は不思議には思わなかった。あの葉はきっと、花荘院にとってお守りのようなものなのだろう。これから続く長い裁判と、獄中での生活。彼はその苦汁の中を、あの葉と共に生きていこうとしているのだ。決して朽ちることのない、大切な思い出と共に。


 木場は庭園を見回した。幾度となく訪れた美しい庭園。花荘院が次にこの光景を目にするのは、随分先のことになるだろう。10年後。いや、もっと先になる可能性だってある。花荘院が再びこの門を潜った時、屋敷はどうなっているのだろう。この美しい木々は、10年後も変わらぬ姿で主人を迎え入れるのだろうか。それとも衰退の一途を辿り、数年後には跡形もなく消え去っているのだろうか。


 いや――きっと変わらないだろう。若宮は命懸けで、師匠が築き上げてきた流派とこの屋敷を守っていくはずだ。そして花荘院自身も、獄中で何年も歳月を過ごしたとしても、その心には、いつまでもこの紅の光景が色づいているに違いない。もしこの景色が変わることがあったとしても、その変化さえも花荘院の目には美しく映ることだろう。


 彼が何よりも愛したあの葉の花言葉のように、大切な思い出は、決して色褪せることはないのだから。

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