友の記憶
「……でも、どうしてガマさんを巻き込んだんです? ガマさんは……あなたの親友だったんでしょう?」
やり切れない思いで木場が尋ねた。花荘院は何十年にもわたってガマ警部と家族ぐるみの関係を続けてきた。ひょっとしたら木場が生まれる前から、2人の関係は始まっていたかもしれないのだ。そんな人間に罪を着せることに、彼は良心の呵責を感じなかったのだろうか。
「親友……か」花荘院が遠い目になった。
「かつての私達の関係であれば、そう形容されても違和感を覚えることはなかっただろう。私達は何も言わずとも、まるで兄弟のようにお互いの考えを推察することが出来た。次郎は私と同じく、他人を寄せ付けない人間だったからな。他の人間には理解しえないことでも、奴にだけは本心を語ることが出来た。次郎は私にとって、ただ1人の心の友と呼ぶべきだった。
だが……変わってしまったのだ。13年前、楓と妻を亡くしたあの日から……」
花荘院は顔を歪めた。今までにない痛切な苦悩がその表情に滲んでいる。
「次郎に対し、
だが……私はもはや次郎を知己として見ることは出来なかった。あの忌まわしい日から、私にとって次郎は……そう、あの男と同じ、怨嗟の対象でしかなかったのだ……」
花荘院はそこで言葉を切った。庭の木々では小鳥が囀り、池では錦鯉が優雅に泳いでいる。部屋に漂う沈痛な空気が嘘のように、その光景は牧歌的に見えた。
苦悶を滲ませた花荘院の姿を見ながら、彼は後悔しているのかもしれないと木場は思った。自分の過ちにより、唯一心を許した相手を、永久に失ってしまったことを。
「……小吾郎」
花荘院が不意に呟いた。急に名前を呼ばれ、若宮が慌てて居住まいを正す。
「お前には世話をかけたな……。お前は私に、15年もの間仕えてくれたというのに、私はお前に、何一つ残してやることが出来なかった……」
「そんな……そんなことはありません!」若宮が悲痛に顔を歪めた。「先生にお仕えしてきた時間は、私にとって至宝とも言えるものでした! 私こそ、先生の抱えて来られた心労に気づけず……」
「いや、お前は何も知らなくてよかった。おかげで私は、お前に後を託すことが出来るのだからな」
花荘院が重大なことを言おうとしているのがわかったのか、若宮が緊張した面持ちで背筋を伸ばした。
花荘院はその生真面目な顔をじっと見返すと、明瞭な声で告げた。
「小吾郎、お前に花荘院流を託したい。お前はこの15年間、誰よりも多く私の作品を見てきた。花荘院流を引き継げるのはお前しかいない。
いや……殺人犯の名を冠するのは外聞が悪い。どうだ、若宮流というのは。悪くない響きだと思うが」
若宮は目を見開き、まじまじと花荘院の顔を見返した。その表情は実に目まぐるしく変化していた。随喜、哀切、そして寂寥。あらゆる感情が、彼の青藍の衣の中で渦巻いているのが窺える。
「先生……」
若宮が視線を下げた。両の拳を握り、嗚咽のような声を数回漏らした後、何かを振り切るように勢いよく面を上げる。
「私は……お待ち申し上げております! 先生がお戻りになるのを……! たとえ何十年かかろうと……! 花荘院流の看板は……、その時まで、必ずお守りいたします!」
頭を振り上げた衝撃で、若宮の瞳から涙が零れ落ちた。涙は藺草の中に吸い込まれ、跡形もなく溶けていく。その露に刻まれた思い出を、永遠に閉じ込めておこうとするかのように。
花荘院は何も言わず、僅かに口元を緩めて若宮を見返した。弟子を見つめる彼の目は、まるで父親のように優しげだった。
「それにしても、皮肉なものだな……」
花荘院が若宮から視線を外すと、感じ入ったように呟いた。
「私は楓の無念を晴らすため、あの男を手にかけた。それがまさか、楓の葉によって告発を受けようとは……。次郎の執念と、家元としての驕りが、私の罪を露呈させたということか……」
花荘院の口調は、誰かに答えを求めているというよりは、自分自身に語りかけているように見えた。
木場はそんな彼の姿を黙って見つめた。初めて対面した時と同じ、堂々たる佇まい。最後まで威厳を失わないその姿は、犯罪者と言えども立派なものに思えた。
だが木場は、その威厳に満ちた姿の中に、一抹の後悔を感じ取っていた。自らの手で、大切な思い出を穢してしまった後悔。
「それは……違うと思います」
気がつくと木場は言っていた。花荘院が静かに木場を見返す。
「もし……楓の葉がなかったとしても、あなたはきっと罪を認めていたと思います。あなたは人に罪を着せて平気でいられるような人間じゃない。ガマさんはそれを知っていたから、最後まで黙秘を貫いたんです。親友として、あなたを信じていたから……」
ガマ警部と花荘院の関係が本当のところどういうものだったのか。それは木場には知る由もない。だけど、木場は信じたかった。ガマ警部のあの沈黙の理由が、自らの罰を引き受けるものであると同時に、友を想う心に裏打ちされたものでもあることを。
花荘院は何も言わなかった。木場の言葉を噛みしめるように何度か瞬きをした後、そっと庭の方に視線を移す。視界に広がる紅の木々。楓や桃子、若宮や花荘院の妻、そして若かりし頃のガマ警部との思い出が詰まった場所。
「……もしかすると、あの紅の葉は、楓からの遺言だったのかもしれんな」
花荘院が庭を見たまま呟いた。木場は当惑してその顔を見返した。
「私の服に楓の葉がついたことや、それが奴の手に渡ったこと。次郎が奴の身体を動かし、その手から葉が落ちたこと……。全てはそう、楓の意思によるものだったのかもしれん。一度は失った『思い出』を……この手で取り戻すことが出来るように」
花荘院はそう言うと、口元を緩め、初めて笑みのようなものを浮かべた。それは、長年にわたって彼を覆い尽くしていた悪夢のような霧が晴れ、その身を守る鋼鉄の鎧が剥がれ落ちた瞬間だった。そこから露わになった感情は、彼自身、想定していないものだったに違いない。
古傷と共に、蘇った感情――それは憎悪でも悔悟でもない。熾火のように心に灯る、かつての友に対する親愛だった。
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