一縷の望み

「ガマさん……」


 木場が絞り出すように言った。2人きりになった途端、堪えようのない感情が内から湧き上がってくる。

 だが、ガマ警部は木場の心境を知ってか知らず知らずが、普段と変わらぬ仏頂面のまま言った。


「余計な感傷に浸っている暇はないぞ、木場。俺達に与えられた時間は15分しかない。要件があるなら手短に言え」


 遠慮も愛想もなく命じられ、木場は涙が零れそうになるのを懸命に堪えた。いつもそうだ。ガマ警部の一喝は、どんな時でも自分の気持ちを引き締めてくれる。


「……ガマさんは、最初から知ってたんですね。誰が真犯人かを……」


 絞り出すように木場が言った。ガマ警部がばつが悪そうに視線を下げる。唇を引き結ぶその表情は、さっき見た桃子のものとそっくりだった。


「……どうしてですか!? あの人は、自分のやった罪をガマさんに着せたんですよ!? 親友だったはずなのに……。いくら昔のことがあるからって……どうしてやってもない罪を引き受けたりするんです!?」


 木場が身を乗り出して問い質したが、ガマ警部は答えなかった。唇を引き結んだまま、じっと押し黙っている。壁にかけられた時計の秒針の音が、じりじりと木場を追い立てていく。

 そうしてどれくらいの時間が経っただろう。やがてガマ警部がぽつりと言った。


「……俺は奴に、取り返しのつかないことをした。奴が俺を恨むのは当然だ。俺が罪を被ることで、奴の気が晴れるのなら……俺としても本望だ」


 そう零したガマ警部の眉間には深い皺が刻まれていた。ただの無愛想とは違う、悔恨が表情から滲み出ている。

 ガマ警部の苦悶は木場にも想像できたが、それでも納得はできず、勢いのまま机に両手を叩きつけた。


「そんなの間違ってます! 確かにあの人は誘拐事件で娘さんと奥さんを失った。でも、だからって殺人が正当化されるはずがないし、その罪をガマさんに着せていい理由にはなりません!」

  

 声を荒げ、一気に木場はまくし立てたがガマ警部の表情は晴れなかった。憂わしげに息を吐き、ゆるゆるとかぶりを振って続ける。


「……木場、これは俺と奴の問題だ。これは、俺に出来る唯一の償いなんだ。お前には悪いが、このまま放っておいてくれ」


「そんな……!」


 視線を伏せたままのガマ警部を前に、木場は痛いほどに拳を握り締めた。そんなの、どう考えたって間違っている。そう叫びたいのに、何故か言葉が出て来なかった。

 きっとこれは、ガマ警部が苦渋の末に出した結論なのだろう。部外者である自分がいくら正論を述べ立てたところで、ガマ警部の心には届かない気がした。


「……桃子ちゃんが、花荘院への暴行容疑で逮捕されました」


 木場がぽつりと言った。ガマ警部もさすがに驚きを禁じ得なかったのか、顔を上げてまじまじと木場を見つめてきた。


「何、桃子が?」


「はい。今、別室で取り調べを受けています。相手が怪我をしたわけではないので、すぐに釈放されるとは思いますが」


「……そうか」


 ガマ警部は深々と息をつくと、ネクタイを緩めたシャツの襟元に顔を埋めた。心なしか、表情が老け込んだように見える。


「桃子ちゃんは、ガマさんが花荘院から呼び出されていたことを知っていました。それで事件当日、あの公園に行ったんです。そして小屋の前で花荘院の印籠を拾って、男の叫び声を聞いた……」木場はそこで言葉を切った。


「桃子ちゃんは最初から、ガマさんが犯人じゃないって知ってたんですよ。だから真相を突き止めるために、1人で花荘院に会いに行った。もし、ガマさんが殺人罪で有罪になったら、桃子ちゃんはどうなるんです?」


「……アイツにとって、俺はとっくの昔に父親ではなくなっていた。俺が刑務所で惨めな生活を送ろうが、アイツには関係がないだろう」


「そんなことありません!」


 木場が再び机を叩いた。ガマ警部が虚を突かれたように顔を上げる。見開かれたその瞳を真正面から見つめながら、木場は一息にまくし立てた。


「どうしてわからないんですか!? 桃子ちゃんはずっとガマさんのことを心配してたんですよ!? だから事件当日に現場に行って、1人で花荘院に会いに行った。本当にガマさんのことがどうでもよかったら、そんなことするはずがない。ガマさんは今も桃子ちゃんの父親なんです!」


 渕川から聞いた、誘拐事件の話が脳裏に蘇る。ガマ警部が現場に踏み込んだ時、桃子は食い入るようにガマ警部を見つめていたという。

 あの時の桃子の目に、ガマ警部はどのように映っていたのだろう。自分を助けに来てくれたヒーロー。表向きは受け入れられなかったとしても、どこかでそのような残像が焼きついていたのではないだろうか。


「……いずれにしても、俺にはどうすることも出来ん」ガマ警部が目を伏せた。「たとえ俺が奴を告発したとしても、奴を追い詰める証拠は何1つとしてない。あるのは決定的に俺に不利な証拠ばかりだ。お前がどう足掻いたとしても……」


「事件当日、ガマさんが見たものを教えてください」


 木場がきっぱりと言った。ガマ警部が顔を上げ、怪訝そうに木場を見た。


「自分はまだ、ガマさんから事件当日の話を聞いていません。もし、花荘院を追い詰めるための証拠があるとしたら、それはガマさんの供述の中にあるはずです。お願いします!」


 木場は机に両手を突いたまま頭を下げた。うつむいていても、ガマ警部の視線がつむじの辺りに注がれるのがわかる。掛け時計の秒針が、無情な処刑執行人のように正確に時を刻んでいる。


「……いいだろう」


 ガマ警部が静かに言った。木場が手を突いたまま顔を上げた。


「俺達に残された時間は残り10分。たった10分で、何が見つかるかはわからんが……お前の刑事としての底意地を、最後に見せてもらうことにしよう」


 そう言うとガマ警部は木場を見上げた。薄暗い部屋の中で、テーブルランプの黄色い灯りが彼の顔を照らし出す。見慣れた仁王のような仏頂面は、今は単身で敵陣に特攻する武将のような悲壮さを帯びて見えた。

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