一縷の望み

「ガマさん……」

 木場が絞り出すように言った。2人きりになった途端、堪えようのない感情が内から湧き上がってくる。

「余計な感傷に浸っている暇はないぞ、木場」

 ガマ警部がぴしゃりと言った。

「俺達に与えられた時間は15分しかない。要件があるなら手短に言え」

 木場は鼻水を啜った。こんな絶望的な状況にあっても、ガマ警部の態度は普段と微塵も変わらない。

「……ガマさんは、最初から知ってたんですね。誰が真犯人かを……」

 ガマ警部がばつが悪そうに視線を下げた。唇を引き結ぶその表情は、さっき見た桃子のものとそっくりだった。

「……どうしてですか!? あの人は、自分のやった罪をガマさんに着せたんですよ!? 親友だったはずなのに……。いくら昔のことがあるからって……どうしてやってもない罪を引き受けたりするんです!?」

 ガマ警部は答えなかった。唇を引き結んだまま、じっと押し黙っている。壁にかけられた時計の秒針の音が、じりじりと木場を追い立てていく。

「……俺は奴に、取り返しのつかないことをした」

 ガマ警部がぽつりと言った。

「奴が俺を恨むのは当然だ。俺が罪を被ることで、奴の気が晴れるのなら……俺としても本望だ」

「そんなの間違ってます!」木場が机に両手を叩きつけた。「確かにあの人は、誘拐事件で娘さんと奥さんを失った。でも、だからって殺人が正当化されるはずがないし、その罪をガマさんに着せていい理由にはなりません!」

「……木場、これは俺と奴の問題だ」ガマ警部が視線を伏せたまま言った。「これは、俺に出来る唯一の償いなんだ。お前には悪いが、このまま放っておいてくれ」

「そんな……!」

 木場は痛いほどに拳を握り締めた。そんなの、どう考えたって間違っている。そう叫びたいのに、何故か言葉が出て来なかった。

 きっとこれは、ガマ警部が苦渋の末に出した結論なのだろう。部外者である自分がいくら正論を述べ立てたところで、ガマ警部の心には届かない気がした。

「……桃子ちゃんが、花荘院への暴行容疑で逮捕されました」

 木場がぽつりと言った。ガマ警部もさすがに驚きを禁じ得なかったのか、顔を上げてまじまじと木場を見つめてきた。

「何、桃子が?」

「はい。今、別室で取り調べを受けています。相手が怪我をしたわけではないので、すぐに釈放されるとは思いますが」

「……そうか」

 ガマ警部は深々と息をつくと、ネクタイを緩めたシャツの襟元に顔を埋めた。心なしか、表情が老け込んだように見える。

「桃子ちゃんは、ガマさんが花荘院から呼び出されていたことを知っていました。それで事件当日、あの公園に行ったんです。そして小屋の前で花荘院の印籠を拾って、男の叫び声を聞いた……」木場はそこで言葉を切った。

「桃子ちゃんは最初から、ガマさんが犯人じゃないって知ってたんですよ。だから真相を突き止めるために、1人で花荘院に会いに行った。もし、ガマさんが殺人罪で有罪になったら、桃子ちゃんはどうなるんです?」

「アイツにとって、俺はとっくの昔に父親ではなくなっていた」ガマ警部がにべもなく言った。「俺が刑務所で惨めな生活を送ろうが、アイツには関係がないだろう」

「そんなことありません!」

 木場が再び机を叩いた。ガマ警部が虚を突かれたように顔を上げる。

「どうしてわからないんですか!? 桃子ちゃんはずっとガマさんのことを心配してたんですよ!? だから事件当日に現場に行って、1人で花荘院に会いに行った。本当にガマさんのことがどうでもよかったら、そんなことするはずがない。ガマさんは今も桃子ちゃんの父親なんです!」

 渕川から聞いた、誘拐事件の話が脳裏に蘇る。ガマ警部が現場に踏み込んだ時、桃子は食い入るようにガマ警部を見つめていたという。

 あの時の桃子の目に、ガマ警部はどのように映っていたのだろう。自分を助けに来てくれたヒーロー。表向きは受け入れられなかったとしても、どこかでそのような残像が焼きついていたのではないだろうか。

「……いずれにしても、俺にはどうすることも出来ん」ガマ警部が目を伏せた。「たとえ俺が奴を告発したとしても、奴を追い詰める証拠は何1つとしてない。あるのは決定的に俺に不利な証拠ばかりだ。お前がどう足掻いたとしても……」

「事件当日、ガマさんが見たものを教えてください」

 木場がきっぱりと言った。ガマ警部が顔を上げ、怪訝そうに木場を見た。

「自分はまだ、ガマさんから事件当日の話を聞いていません。もし、花荘院を追い詰めるための証拠があるとしたら、それはガマさんの証言の中にあるはずです。お願いします!」

 木場は机に両手を突いたまま頭を下げた。うつむいていても、ガマ警部の視線がつむじの辺りに注がれるのがわかる。掛け時計の秒針が、無情な処刑執行人のように正確に時を刻んでいる。

「……いいだろう」

 ガマ警部が静かに言った。木場が手を突いたまま顔を上げた。

「俺達に残された時間は残り10分。たった10分で、何が見つかるかはわからんが……お前の刑事としての底意地を、最後に見せてもらうことにしよう」

 そう言ったガマ警部の表情は、いつもと何も変わるところがなかった。憮然とした、仁王のような顔。昨日逮捕された時点で、ガマ警部はすでに覚悟を決めていたはずだった。

 だが今、ガマ警部の中には、新たな感情が生まれ始めていた。それは刑事として30年間、嘘を常套句とする被疑者と渡り合う中で、ガマ警部が早々に捨て去ってしまった感情だった。

 誰かを信じ、希望を見出し、想いを託そうとする心だった。

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