捜査 ―5―
この身を賭しても
倒れた久恵に水を飲ませた後、木場は茉奈香と2人で彼女をソファーへと運んだ。久恵は貧血を起こしたらしく、苦しげな呼吸を繰り返していたが、やがて穏やかな寝息へと変わっていった。桃子が逮捕されたという知らせがよほどショックだったのだろう。
しばらく誰かが付いていた方がいいということで、茉奈香を残し、木場は1人警視庁へと車を走らせることにした。久恵のことも心配だったが、今はとにかく桃子に話を聞かなければならない。
警視庁に到着した頃には、時刻はすでに17時を回っていた。今日はマスコミの姿もない。
木場は正面玄関から署内へと乗り込んだ。すでに日が暮れているにもかかわらず、署内には未だ多く警官が忙しなく行き交っている。どこかピリピリした空気が流れているのは、ガマ警部の事件の捜査が大詰めを迎えているからだろうか。
転がるようにして廊下を走りながら、木場は取り調べ室の並んだ一角の前に辿り着いた。桃子の部屋はどこだろう。木場は昨日と同じように覗き窓を片っ端から覗いたが、桃子はおろか、ガマ警部の姿さえ見られない。2人ともどこに行ってしまったのだろう。
「あれー、君は確か、木場君じゃなかった?」
後ろから能天気な声が聞こえ、木場ははっとして振り返った。まるで紳士向けファッション誌の表紙から抜け出してきたような男がそこにいた。オーダーメイドらしいダークグレーのスーツを纏い、磨き抜かれた革靴を履き、頭髪は美容院から出てきたばかりのように一分の乱れもなく、口元には余裕のある笑みを浮かべている。そんな高級オフィスが似合いそうな洒落た格好で、壁の黄ばんだ署内を闊歩する人間は1人しかいない。
「こ……小宮山刑事部長!」
木場は思わずしゃんと背筋を伸ばした。よりによって、一番会いたくない人間に会ってしまった。
「あぁよかった。今度は僕の名前、ちゃんと覚えててくれたんだね」
小宮山は人の好さそうな笑みを浮かべて言うと、迷いのない足取りで木場の方に近づいてきた。木場はライオンの前に差し出された鼠になったような気持ちで首を竦めた。
「で、君はここで何をしてるのかな?」小宮山が尋ねてきた。「確か君、今日も公休だったはずだよね?」
「そ、それは……実はあの、家にずっといても退屈だったもので、気分転換に署内を散歩しようと……」木場はしどろもどろに答えた。
「あのねぇ木場君。君のつまらない冗談に付き合ってるほど、僕は暇じゃないんだよ」
小宮山が言った。表情がにこやかな分、かえって底の知れない恐怖を感じる。木場は慌てて頭を下げた。
「す……すみません! 自分、どうしてもガマさんのことが気になって、それで捜査を続けて……」
「ふうん。つまり君は、僕の忠告を無視したってわけだ。言ったはずだよね? 捜査から手を引かないと、警察手帳を失うことになるって。
どうやら君は上司もろとも、警察と敵対する道を選んだってわけだ。ま、ある意味見上げた忠誠心ではあるけどね」
片手で顎を擦りながら小宮山が木場を見下ろしてくる。視線に耐えきれずに木場はうつむいた。絶体絶命のこの状況を、どうにか切り抜ける方法はないだろうか? 警察手帳を取り上げられてしまったら、事件の真相は永久に闇に葬られることになる。ガマ警部は殺人罪で投獄され、桃子も、父親が犯罪者という烙印を押されたまま長い一生を過ごすことになる。そんなことは耐えられない――。
「あの……刑事部長、一つお願いがあるのですが」
木場が上目遣いに小宮山を見上げた。小宮山が不思議そうに目を瞬かせる。
「明日までに、自分にチャンスをいただけませんか? 警察は、13年前の誘拐事件と今回の事件を結びつけて、ガマさんが犯人だという筋書きを作り上げている。
でもそれは違う。犯人は他にいるんです。あと1日。あと1日だけ時間をもらえたら、自分は絶対にその犯人を突き止めて見せます。だから……自分の警察手帳を取り上げるのも、蒲田警部を送検するのも、もう少しだけ待っていただきたいんです」
小宮山は細めた目を開き、まじまじと木場を見つめた。人の言葉を話す動物を見つめるような顔だった。
「君……誰に向かって口を聞いているかわかっているのかな? 僕は刑事部長だよ。たかだか巡査に過ぎない君の言い分を聞く必要などない。それはわかっているよね?」
静かに、だが威厳を感じさせる口調で小宮山が告げる。木場は気圧されそうになったが、それでも小宮山の目を見返して言った。
「もちろん、出過ぎた真似だってことはわかってます。でも……自分はどうしても、蒲田警部が犯人だとは思えないんです。
自分はこの9か月間、蒲田警部の下で働いてきました。毎日怒られてばっかりで、落ち込むことも何度もありましたけど、それでも違う上司の方がよかったとは思わなかった。それは……自分が刑事として、蒲田警部を尊敬していたからです。
蒲田警部は恐くて、誰に対しても厳しいですけど、それは失敗を許したくないからです。刑事の失敗は、そのまま事件を解決から遠ざける。蒲田警部はそれを知っていたから、自分が失敗するたびに雷を落とすみたいに怒っていたんです。
ただ犯人を捕まえることだけを考えて、人からどんなに嫌われても絶対に自分の考えを曲げない。自分はそんな蒲田警部の姿を知っています。だからわかるんです。蒲田警部は何があっても、間違ったことは絶対にしない。怒りの感情に捕らわれて、一線を乗り越えることはしない。他の全員が信じてなくても、自分だけは、最後まで蒲田警部の無実を信じてます」
そう言って木場は話を終えた。小宮山のようにキャリアを積んだ人間からすれば、木場の言葉など、若造の青臭い思想だと断じられるかもしれない。
それでも木場は、自分の信念に懸けてみたかった。周囲から疑いの目に晒される人間を木場は何度も信じ、その結果、真相が明らかになった事件もあった。
木場は小宮山にそのことを伝えたかった。疑いではなく、信じる心から真実が露見することもあるのだということを。
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