急転直下

「あの、ところで久恵さん。あの棚に置いてある写真って、もしかして桃子ちゃんと楓ちゃんですか?」


 茉奈香が棚の方を指さした。木場がその方を見ると、棚の上に置かれている写真立てのうち、3、4歳くらいの子ども2人が映っているものが目に入った。1人は髪が短く、Tシャツに短パンという男の子のような格好をしている。もう1人は肩くらいの髪の長さで、白い襟のついた深緑色のワンピースを着ている。公園で撮ったものらしく、2人とも砂まみれになりながらも、楽しくて仕方がないといった様子で笑っている。


「ええ……おっしゃる通りです」久恵が神妙に頷いた。「先生の御宅とは、昔から家族ぐるみの付き合いがありまして、桃子と楓ちゃんはとても仲がよかったのです。端から見るとまるで姉妹のようでした」


「そうだったんですか……」


 木場は改めて写真の中の少女を見つめた。髪の短い方がおそらく桃子だろう。今のようなむっつりとした顔ではなく、弾けるような笑顔を向けている。自分が数年後に誘拐事件に巻き込まれることなど、この時は想像もしなかったに違いない。


 そしてその隣に写るワンピースの少女が楓だろう。少しだけ内巻きにされた髪形がワンピースと調和し、お人形のように可愛らしい。こんなあどけない少女が数年後に命を落とすことになったのだと思うと、木場はやるせない気持ちがした。


「……楓ちゃんのことは、先生からお聞きになったのですか?」


 久恵がカップをおざなりにかき混ぜながら尋ねた。


「あ、いえ……、実は捜査を進めているうちに、今回の事件の被害者が、誘拐事件の犯人だったことがわかったんです。楓ちゃんのことはそこで……」木場が答えた。


「そうだったんですの……」


 久恵がカップをかき混ぜる手を止めた。水面に広がる波紋をしばし見つめた後、小さくため息をつく。


「……普段の主人であれば、あんな失態を演じるはずがありません。ですが、あの日の主人は、冷静な判断が出来る状態ではありませんでした。

 私にはあの人を責めることは出来ません。ですが……桃子は、目の前で大切なお友達を失ってしまったのです。あの子に主人を許せとは、私の口からはとても……」


 久恵が形のよい唇を引き結んだ。ガマ警部と桃子、どちらの側にも立つことが出来ず、板挟みになっている心労が窺える。


「桃子ちゃんがガマさんとの別居を望んだのは、やっぱり誘拐事件のことがあったからなんですね……」木場が息をついた。


「ええ、もちろん桃子も、主人があの子を助けようとしたことはわかっています。それに、主人があの場にいなかったとしても、楓ちゃんは亡くなっていたかもしれない。それでもやはり、割り切れないものがあるのでしょうね……」


 木場は頷いた。善意で振り上げた刃であればこそ、返す刀で受ける傷も大きい。


 その時、壁際に設置された電話機が鳴る音がした。久恵が椅子から腰を浮かせ、慌てて電話機の方へ向かう。


「ふーむ、どうも今回の事件の鍵を握ってるのは、桃子ちゃんの気がするね」


 茉奈香が腕組みをして唸った。クッキーをもしゃもしゃと咀嚼しながら、難しい顔で何やら考え込んでいる。


「桃子ちゃんは事件の3日前、ガマ警部さんの家で何かを見た、あるいは聞いた。それで事件当日に自然公園に行って、近くで花荘院さんの印籠を拾った。

 そして今日、桃子ちゃんは花荘院さんに印籠を返しに行くついでに、何か話をしようとしている……。ひょっとしたら、桃子ちゃんは花荘院さんについて、何か掴んでるのかもしれないね」


「何かって、例えば?」


「印籠以外にも何か見つけたのかも。例えば花荘院さんの名刺を小屋の前で拾って、そこに被害者の血が付いてたとか」


「それが本当だとしたら決定的だけど……。さすがにそこまで重要な証拠だったら警察に届けるんじゃないか?」


「あくまで例えば、の話だよ。まぁ、桃子ちゃんの警部さんに対する気持ちも複雑だから、実際のとこはわかんないけど……」


「ええ……そんな!?」


 久恵が突然驚愕の声を上げ、木場と茉奈香は驚いて振り返った。久恵は声を潜めて電話の相手と話している。後ろ姿なので表情は見えないが、何やらひどく焦っている様子だ。


 そのまま2、3分話した後、久恵が受話器を置いた。こちらを振り返ろうとしてよろめき、壁に手をついて身体を支える。その顔はひどく青ざめていた。


「久恵さん……? どうしたんですかいったい」


 木場が心配そうに尋ねた。久恵は壁に手を当てたまま、何度も呼吸を繰り返した後、震える声で言った。


「今……警察の方から連絡があって……。桃子が……、た……、逮捕されたと……」


「何ですって!?」


 木場は思わず立ち上がった。勢いでテーブルクロスが引っ張られ、カップが音をたてて横倒しになる。半分以上残ったコーヒーが染みを作ったが、構ってはいられなかった。


「どういうことですか!? 桃子ちゃんが逮捕って!?」


「わ……わかりません。警察の方からは、暴行の現行犯だとしか……」


「暴行?」


 木場が眉を顰めた。さらに状況を尋ねようと口を開いたが、そこで久恵の身体からふっと力が抜けるのが見えた。手が壁から離れ、身体が床にくずおれる。


「久恵さん!」


「ちょっとお兄ちゃん、水持ってきて! 水!」


 慌てて久恵に駆け寄ろうとする木場を、茉奈香が立ち上がって制した。久恵の傍に駆け寄り、ゆっくりと上体を起こす。木場は慌てて頷くと、台所で手近にあったコップを掴み、水道の蛇口を勢いよく捻った。


 だが、何故だ――? 木場はコップに水を注ぎながら自問した。 桃子はいつ、誰に、何の目的で暴力を振るったのだろう? 予想だにしない展開を前に、混乱が木場の頭を激しく駆け巡っていた。

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