罪の記憶

 何てことだ――。


 木場は思わず視線を落とした。一発の銃声が、その森の様相を一瞬にして変えてしまった。周囲の木々からは鳥が飛び立ち、紅葉の葉がはらりと風に揺られ、音もなく少女の遺骸の上に落ちる――。そんな光景が木場の脳裏に浮かんだ。


「犯人の男……黒川伊三雄は即座に逮捕されました」


 渕川が暗い声で続けた。


「黒川に前科はなく、被害者が暴行された後もありませんでしたから、わいせつ目的の誘拐ではなさそうでした。事件当時無職だったため、最初は営利目的の誘拐かと思われました。被害者が1人亡くなっていますから、通常であれば、懲役30年は下らない重罪です。

 ですが、捜査を進めていくうちに、黒川が統合失調症であることがわかったのです」


「統合失調症?」


「はい。黒川の供述によれば、たまたま近所の公園を通りがかったところ、被害者である2人の女の子に出くわしたが、その2人が悪魔の使いに見えたとのことでした。この2人を始末しなければ、自分の命が危ない……。そんな強迫観念に狩られて犯行に及んだとのことでした」


「まさか、そんな……」


「……自分も信じられません。ただ、黒川には以前からそういった妄想の症状があるとのことでした。そのために学校でいじめられ、職場も数回クビになったのだとか。取り調べにおいても、すぐに死神や悪魔などといった単語を持ち出し、聴取に非常に苦労したそうです。裁判でも、医師やかつての雇用主が出廷し、黒川が精神に異常を来していたことを証言しました。

 その結果……黒川には心神耗弱が認められ、懲役12年の刑が下ったのです」


 心神耗弱。犯罪をした者が善悪の判断をし難い状態にあった場合、刑の減刑が認められる制度だ。黒川はそれを受けて、通常なら30年は服役するところをわずか12年で済んだ。木場の感覚からしても、それはあまりにも軽い量刑のように思えた。


「それで……ガマさんはその後どうなったんですか?」木場は恐る恐る尋ねた。


「もちろん、非難の矢面に立たされました。警部殿が踏み込んだことで犯人がパニックに陥り、発砲したことは事実でしたからね……。降格や停職も検討されたようですが、警部殿はそれまでに多大な功績がありましたから、結局、数週間の謹慎を言い渡された後に現場に復帰されました。……もちろん、何もかもが元通りになったわけではないでしょうが」


 木場は頷いた。自分の娘は助かったとは言え、自らの勇み足によって1人の幼い命を失ってしまったのだ。いくらガマ警部が鋼鉄の心臓の持ち主とは言え、傷を負わないはずがない。

「……この事実が発覚した時、今回の捜査員は色めきたちましたよ。凶器についた指紋と現場の状況は、明らかに警部殿の犯行であることを示しています。足りないのは動機だけ……。欠けていたパズルのピースが、ここに来てぴったりとはまったわけです」


「でも、おかしいじゃないですか! ガマさんは根っからの刑事なんだ。犯罪者を捕まえるのが仕事で、自分が犯罪者になることなんかあり得ない! たとえ被害者に恨みを持ってたとしてもです! そんなこと、ガマさんと付き合いのある人間ならわかりそうなもんじゃないですか!?」


 義憤に駆られた木場が拳を振り上げる。だが、渕川はかえって悲しげな顔になって深々とため息をついた。


「木場巡査殿……誠に残念ですが、署内にはあなたのように、警部殿を慕っている人間ばかりではないのですよ。警部殿は敵を作りやすいお方です。事件解決のために邁進し、時には上層部の判断にそぐわない行動を取られることもある。自分はそんな警部殿の姿勢を尊敬申し上げていますが、警察は組織ですから、どうしても出る杭は打たれることになります。今回の逮捕により、警部の椅子が1つ空くことを喜んでいる人間もいるのですよ」


「そんな……」


 木場は絶句した。事件の真相を解明するという揺るぎない信念を持ち、そのためには組織のルールを曲げることも厭わない。そんなガマ警部の姿勢に、木場自身幾度となく助けられてきた。だが周囲の人間からすれば、ひたむきに正義を追求するガマ警部の存在は、あまりにも潔癖に過ぎるということか。

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