彼女の名は

 木場は頭を捻った。何か他に、渕川から聞き出せることはないだろうか? 何でもいい。ガマ警部の疑いを晴らせるような事実は――。

「あ……そう言えば」

 木場が呟いた。渕川が上目遣いに陰惨な表情を向けてくる。

「亡くなった女の子の親族はどうなったんですか? 誘拐事件が問題になるなら、そちらのご両親にも話を聞く必要があるんじゃないですか?」

「ええ、もちろんそちらの家族についても調査は進めています。被害者の少女は1人っ子で、母親は判決の1ヶ月後に自殺しています」

 聞けば聞くほど気が滅入る。木場は眉を下げて続けた。

「それで、父親は?」

「父親は存命ですが、事件当日にはアリバイがあったため、今回の事件との関連はないと見られています」

「そうですか……」

 木場はため息をついた。亡くなった子の両親を疑うのは忍びなかったが、それも空振りだったようだ。

「ちなみに、その女の子は何て名前なんですか?」木場が尋ねた。「桃子ちゃんの友達だったんですよね?」

「えーと……ちょっとお待ちください。確か珍しい名前でしたよ」

 渕川がスーツのポケットから手帳を取り出して捲り始めた。かなり使い古されているようで、茶色い革表紙がところどころ剥げている。

 木場はそのみすぼらしい手帳を眺めながら、突っ張った態度の桃子の姿を思い出していた。車内で話を聞いた時には、ガマ警部を毛嫌いしている理由がわからなかったが、今ならその気持ちがわかる気がした。目の前で友達を殺されたのだ。自分を助けるためだったとは言え、その死の原因を作った父親を恨んだとしても無理はない。

「あ、ありました」渕川が言った。「えーと、これは何て読むんだったかな。はなそういん……ふう? いや、違う。『かえで』か」

 渕川のその言葉で、木場の思考ははたと現実に引き戻された。

 今、何と言った?



 ――



「ふ……渕川さん! その手帳見せてください!」

 言うが早いが、木場は渕川から手帳をもぎ取った。呆気に取られた渕川に見つめられる中、木場は眼球が飛び出しそうになるほど目を見開いて手帳に書かれた文字を凝視した。角ばった文字で、事件関係者の名前が連ねられている。


 被疑者、黒川伊三雄、25歳。

 被害児童、蒲田桃子、5歳。

      花荘院楓、享年5歳。


「かそういん……かえで……」

 声に出した瞬間、凍りつくほどの戦慄が木場の背筋を貫いた。これまでに謎だった点が線となって結びつき、明瞭な像を描き出す。被害者の傍に落ちていた葉。ホームレスの大沼が聞いた謎の言葉。家元の邸宅を彩っていた紅の木々。

「……木場巡査殿? 大丈夫でありますか? 顔が真っ白ですが」

 渕川が心配そうに木場の顔を覗き込んできたが、木場はすぐには返事が出来なかった。手帳から視線を上げ、放心して前方を見つめる。

「……容疑者は他にもいます」

 木場がぽつりと言った。渕川が怪訝そうに眼鏡の縁に手をやる。

「……自分は今日、その人に会ってきました。ただ、それは別の目的があったからで、その人が事件と関係あるなんて思っていませんでした。

 でも……誘拐事件のことがわかった以上、話は別です」木場は決然と顔を上げた。

「明日、もう一度その人に会ってきます。そして事件との関わりを確かめる。ガマさんのためにも……自分が必ず真相を突き止めてみせます!」

 木場は意気込んで言うと、手帳を潰れそうになるほど握り締め、資料室の棚の間を猛然と駆け抜けて行った。

「あ……木場巡査殿! 手帳を返してほしいであります! そこには自分のプライベートな情報が……!」

 渕川は慌てて後を追おうとしたが、棚の角を曲がろうとしたところで盛大に頭を打ちつけた。渕川は痛みに額を押さえたが、今度は衝撃で上から段ボールが落ちてきた。中に詰め込まれた資料が雨となって振りかかり、宙に舞った埃がまともに口に入る。

 渕川は盛大にむせ込み、涙目になりながら資料の山を抜け出した。埃まみれの格好のまま廊下に飛び出した時には、すでに木場の姿は見えなくなっていた。


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