蒲田家の事情
「それで、どうしてガマ警部さんの奥さんが現場に来られたんですか? もしかして、警部さんのアリバイを証言してくれるとか!?」
茉奈香が期待を込めて尋ねる。だが、久恵は柳眉を顰めてゆるゆるとかぶりを振った。
「いいえ……実は私、あの人とは8年前から別居しているのです」
「別居?」
木場と茉奈香が同時に聞き返した。久恵は表情に影を落として頷いた。
「ご存知の通り、あの人は仕事一辺倒の生活を送っていましたから、家庭を顧みることもさほどありませんでした。私自身は、あの人を伴侶に選んだ時点でそのことは覚悟しておりましたが、娘の方が納得いかなかったようで……」
「娘さんというと……確か今高校生でしたっけ」木場が記憶を辿りながら尋ねた。
「ええ、今年で3年生になります。元々娘は主人に懐いてはいなかったのですが、一時から毛嫌いするようになりまして……。これ以上主人との暮らしを続けるくらいなら、家を出て行くと言い出したのです。それでやむなく別居することに」
「そうだったんですか……」
木場は神妙な顔で頷いた。ガマ警部から家庭について内情を聞いたことはなく、そんな込み入った事情があるとはまるで知らなかった。
「私は時々主人の家に行って、掃除をしたり食事を作ったりしているのですが、娘はそれも納得がいかないようです。『あんな奴、放っておけばいい』と口癖のように言い、窘めるのにいつも苦労しています」久恵がため息をついた。
「でも、妙ですね。娘さんはどうしてそんなにガマさんを嫌っているんでしょう?」
木場が尋ねた。今高校3年生ということは、8年前だと小学5年生。父親を疎ましく思い始める時期ではあるだろうが、家出を考えるほど同居を嫌がるのは尋常ではない。
「まぁ……年頃の娘の考えることですから、親には想像もつかない理由があるのでしょう」
久恵が言葉少なに言った。口ごもるようなその口調に、木場はどこか不自然なものを感じたが、何かはわからなかった。
「事件当日、あの人がどこで何をしていたかは存じ上げません」久恵が話題を切り上げるように言った。
「それでも私には、あの人が人様を殺める人間ではないことは存じています。そのことを、どうしてもお伝えしたかったのです」
「それは自分だってわかってますよ!ガマさんが犯人なはずありません!」木場が拳を振り上げた。
「……でも、状況的には圧倒的に警部さんに不利なんだよね。警部さん自身が黙秘してるって言うし」
茉奈香が冷静に口を挟んだ。木場はじろりと妹を見やる。久恵の方は特に気分を害した様子はなく、ゆっくりと首を横に振った。
「あの人は意味のないことは致しません。あの人が黙秘するということは、きっと何か事情があるのでしょう」
「そうですよね! 自分もそう思います!」木場が激しく頷いた。
「……ただ問題は、その事情が何かわかんないってことなんだよね」茉奈香がなおも言った。「いくら黙秘してても、証拠が揃ってたら検事は有罪に出来るわけだし」
「……茉奈香、お前どっちの味方なんだよ」木場が妹を睨みつけた。
「味方とか敵とかじゃなく、事実を言ってるだけだよ。何か警部さんに有利な証拠見つけないと、本当に犯人にされちゃうよ?」
正論を返され木場は言葉に詰まった。確かに心証だけでは、ガマ警部の無実を証明することは出来ない。
「久恵さん、他にガマさんのアリバイを証明してくれそうな人はいませんか?」木場が藁にも縋る思いで尋ねた。
「そうですね……。あの人は私生活ではほとんど人付き合いをしていませんでしたから。どなたかと一緒にいたということは……」
久恵は困り顔で額に手を当てていたが、ふと何かに気づいた表情になった。
「……あの方であれば、もしかしたら」
「誰ですか!?」
木場と茉奈香が同時に叫んだ。久恵は手に提げていた小さなバッグを持ち上げると、そこから革製の財布を取り出した。ゆったりとした動作で財布を探り、一枚の名刺を取り出して木場に差し出す。名刺には、手書きの字で名前と職業らしきものが書かれていたが、達筆過ぎてすぐには判読できなかった。これでは名刺の意味がないと思いながら、木場は久恵の手を借りて、そこに書かれた文字を読み上げた。
「『花荘院流 総本山家元
「かそういん、そうじゅうろう。平仮名にしたら12文字もあるよ。あたしとお兄ちゃんの名前足しても2文字も負けてる!」
茉奈香が悔しそうに拳を握り締めた。そんなところで張り合っても仕方がないだろう。
「花荘院流とは、華道の一派のことですわ」久恵が補足するように言った。
「その家元の方が、主人とは竹馬の友の関係ですの。私はもう何年もお会いしておりませんが、主人にとっては唯一のご友人と呼べる方ですから、あるいは……」
連絡を取り、または直接会っている可能性があるということか。今もガマ警部と関係しているかはわからないが、当たってみる価値はある。
「先生には、私の方から連絡を入れておきます」久恵が財布をしまいながら言った。「事態が事態ですから、すぐにでも会っていただけるはずです」
「わかりました! 自分、早速その家元さんのところに行ってきます!」
木場が頬を紅潮させて叫んだ。暗闇しか見えなかった捜査状況に、ようやく光明が差し込んだ気分だった。
「あ、それと、久恵さんの連絡先も教えてもらえますか?」茉奈香がすかさず言った。「もしかしたら、追加で何かお聞きするかもしれないので」
「ええ、構いませんよ。今日明日と1日家におりますから、御用があればお訪ねいただいても結構です」
久恵が微笑んで言った。茉奈香は早速携帯電話を取り出すと、久恵と電話番号を交換し始めた。自分は家元を訪ねることしか頭になかったのに、妹ながら抜け目のない奴だ。木場は舌を巻きたくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます