花荘院邸

 久恵に教えられた住所をカーナビに入力し、車を走らせること約40分。木場が花荘院邸に到着した頃には16時になっていた。

 花荘院邸は都心から離れた閑静な住宅街の一角にあり、白い漆喰を使った長い塀に、瓦屋根の平屋という造りが武家屋敷のような雰囲気を醸し出している。門は漆塗りで、邸内には綺麗に剪定された庭園が広がっている。何だか江戸時代にタイムスリップしたみたいだと木場は思った。

「うわー、すごい屋敷だね。何か観光名所に来たみたい」茉奈香が聳え立つ屋敷をみながら感嘆の息を漏らした。

「いかにも由緒正しい家柄って感じだね。こんな屋敷に住んでるなんて、花荘院さんってどんな人なんだろう?」木場が言った。

「華道の家元だもんね。こう、紋付袴なんか着て、白髪のオールバックに髭生やして、カメラの前でも絶対笑わないような感じ?」

「何だよそのコテコテのイメージは」

「なんたって『家元』だから。当たったらジュース奢ってね?」

「ないと思うけどなぁ」

 木場は今一度屋敷を見やると、半ば気後れしながら、漆塗りの門を潜って行った。


 邸内に一歩足を踏み入れると、そこには別世界のような光景が広がっていた。

 白い砂利を敷き詰めた地面に飛石が道を描き、苔むした床と相まって美しいコントラストを描いている。前方には立派な松の木が聳え、傍らにある水鏡のような池では錦鯉が優雅に泳いでいる。

 だが、何よりも木場の目を引いたのは、庭一帯を鮮やかに彩る紅葉の木だった。時折葉がはらりと落ち、水面に浮かんでは静かにその身をたゆたわせている。その見事な庭園を前に、木場は言葉もなく立ち尽くした。

「わぁ……すごい。こんな綺麗なお庭見たの初めて」

 茉奈香が二度目の感嘆の息を漏らした。だが無理もない。目も綾な日本庭園に、見るものを圧倒するほどの紅葉。その素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。

「でも、12月でも紅葉こうようって見れるんだね。大抵11月には散っちゃうと思ってたんだけど」茉奈香が紅葉の木を見上げながら呟いた。

「確かに、うちの近所の公園に紅葉もみじの木はあるけど、12月には大抵枯れてるよ。残ってたとしてもほとんど紫色に近くなってる」木場も茉奈香の隣に並んだ。

「だよねー。でもこんなの見てたら羨ましくなっちゃう。うちの庭にも紅葉植えようかな」

「それは紅葉もみじではありませんよ」

 木場と茉奈香がそんなやり取りをしていると、急に後ろから声をかけられて2人は飛び上がりそうになった。振り返ると、竹箒を持った和服姿の男性が眼前に立っていた。

 年齢は30代前半くらいだろうか。ほっそりとした体躯を青藍の着物で包み、竹箒に添えられた長い指先は繊細な工芸品のように見える。ワンレングスの黒髪は肩まで伸ばされていたが、不思議と無造作な感じはせず、むしろきちんと櫛が入れられて艶やかな輝きを放っている。こちらを見据える切れ長の目はどこか翳りを帯びていて、悩ましげな雰囲気を漂わせている。歌舞伎の女形をやらせたらさぞ似合うだろう。

 木場は呆気に取られてその女性のような男性を見つめた。誰だろう。箒を持っているということはお手伝いさんだろうか。それにしては雰囲気が違っている気がする。

「あの、紅葉もみじじゃないってどういうことですか?」茉奈香が臆さずに尋ねた。

「これは紅葉ではなく、楓の木です。紅葉という植物は厳密には存在せず、色づいた楓を紅葉と呼んでいるだけです」

「そうなんですか? あたし、ずっと秋と言えば紅葉って思ってましたけど」

「確かに、種類によってはモミジと名のついた植物もありますが、植物学上はいずれもムクロジ科カエデ属に分類されます。盆栽の世界では、葉の切れ込みの数によってカエデとモミジを区別するようですね」

「へーえ、楓と紅葉ってそんな違いがあるんですね! あたし、初めて知りました!」茉奈香が感心したように言った。

「一般の方には馴染みのない話でしょうからね。ちなみに楓という名前は、葉の形が蛙の手に似ていることに由来するそうです」

「そうなんですか! 勉強になりますね!」

「ええと……紅葉と楓の違いはわかりましたけど、それよりもあなたは?」

 木場がおずおずと口を挟んだ。放っておいたら、いつまでも楓と紅葉についての蘊蓄を聞かされそうな気がした。

「これは申し遅れました」男は細い目を微かに見開くと、素早く姿勢を正した。「私は若宮小吾郎わかみやこごろう。花荘院先生の内弟子で、15年来、このお屋敷の管理を任されております」

 若宮と名乗った男がきっちりと腰を折ってお辞儀をした。わかみやこごろう。またしても時代劇のような名前。華道の世界では、名前が古めかしくないと門下に入れないルールでもあるのだろうか。

「内弟子ってことは、若宮さんも華道をされるんですか?」茉奈香が尋ねた。

「はい。18歳の頃より先生の下で修業致しておりますが、未だ先生の足元にも及びません」

「それにしても15年って長いですね。途中で嫌にならなかったんですか?」木場が口を挟んだ。

「まさか。私は先生を欽慕きんぼつかまっておりますから、修行を苦に感じたことなど一度たりともございません」若宮がきっぱりと言った。

「はぁ、そうですか……」

 木場は改めて若宮の姿を見つめた。18歳から15年間、若宮は花荘院の下で華道の修行に明け暮れてきた。花荘院に対する彼の信奉は相当深いものがあるのだろう。その優美な容貌からは想像もつかない、意志の強さを木場は垣間見た気がした。

「ところで、先生との謁見を希望されたのは、もしやあなた方でしょうか?」若宮が尋ねてきた。

「あ、そうなんです。自分は警視庁捜査一課の木場、こっちは妹の茉奈香と言います。先生は今どちらに?」

「つい先ほどまで、弟子に稽古をつけておられましたが、今は奥の間にいらっしゃるはずです。座敷にご案内しますから、そこでお待ちください。私がお呼びして参りますので」

 若宮はそう言うと、砂利を踏みしめて足早に歩いて行った。木場と茉奈香も慌ててその後に続いた。


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