家元との対面

 木場が通されたのは、こじんまりした茶室のような場所だった。床の間には達筆な文字の掛け軸がかけられ、生けられた花がその下に控え目に鎮座している。両方とも花荘院の手によるものだろう。部屋の中央では小さな囲炉裏がぱちぱちと音を立てて、隅では竹で編まれたランプが暖かみのある黄色い灯りを灯している。開け放した障子の向こうからは庭園が一望でき、池の傍にある鹿威しが時折かこんと音を立てている。

 都内とは思えないほどの静謐さが漂う空間の中、木場は居心地悪そうに藤色の座布団の上で身を捩らせていた。

「お兄ちゃん、どうしたの?さっきからもぞもぞしてるけど」茉奈香がきちんと正座したまま尋ねてきた。

「だってさ……さっきからずっとこの体勢のままなんだよ。いい加減足が痺れてきてさ」

 木場が苦痛を顔に滲ませながら答えた。若宮に案内され、座敷で待つこと早20分。花荘院は一向に姿を現す気配を見せない。

「花荘院さんが来た時に、足崩してちゃみっともないと思って我慢してたんだけど、そろそろきつくなってきたな……」

 木場は足の指を開いたり閉じたりした。指先がじんじんとして、次第に感覚がなくなってきている。

「もう、情けないなぁ。ちょっと足崩したら? 家元さん来るのにまだ時間かかりそうだし」

 茉奈香が庭とは反対側の障子を見やりながら言った。障子の向こうに未だ人影は見えない。

「そうだな……。じゃあ、ちょっとだけ……」

 木場がそう言ってそろりと右足を伸ばした時だった。突然廊下を足早に歩く音が聞こえたかと思うと、障子が勢いよく開かれ、いかめしい顔をした背の高い男性が姿を現した。

 年齢はおそらく50代前半。黒い紋付に灰色の袴を着込み、白髪のオールバックに立派な口髭を生やし、腕組みをしてこちらを見下ろす姿は威厳に満ちている。思わず畳に額を擦りつけて土下座したくなるくらいだ。茉奈香との約束を思い出す。どうやら帰る前に財布が軽くなりそうだ。

 花荘院は最初に茉奈香を見て、そして、片足を突き出した格好で制止している木場の方に視線をやった。気まずい沈黙が3秒ほど流れ、木場は愛想笑いを浮かべながらそっと右足を元に戻した。素知らぬ顔で座っている茉奈香の方をじろりと見やる。

「……久恵さんから話は聞いた。昨晩の次郎の行動を知りたいそうだな」

 花荘院が木場の向かいに正座し、豊かなバリトンで言った。次郎、と言われ、一瞬誰のことかわからなかったが、すぐにそれがガマ警部の名前であることを木場は思い出した。

「あ、はい。自分はガマさ……蒲田警部の部下の木場と言います。こっちは妹の茉奈香。花荘院さんは、蒲田警部とは昔からのご友人なんですよね」

「いかにも。私と次郎はいわば知己の関係でな。昔は奴も、この屋敷によく足を運んでいたものだ。一時は、久恵さんを巡って争ったこともあったな」

 花荘院がにこりともせずに言った。木場は若かりし頃のガマ警部と花荘院が、恋の鞘当てを繰り広げる場面を想像してみたが、出来の悪いB級映画としか思えなかった。

「次郎が逮捕されたと聞いた時……私は何か悪い夢を見ているのではないかと思った」花荘院が言った。「あの男は犯罪者を逮捕するのが仕事だ。悪を憎むことはあっても、自ら悪に身を窶すことなどあり得ない。それはこの私が断言しよう」

「そうですよね! 久恵さんも同じことを言ってました。ガマさんが殺人なんてするはずがありません!」木場が鼻息荒く同意した。

「でもさ、何回も言うけど、証拠は警部さんが犯人だってことを示してるんだよ」茉奈香が冷静に指摘した。「いくら周りの人がやってないって言っても、証拠を覆さなきゃどうしようもないよ」

 木場は妹を睨みつけたが、言い返すことはしなかった。代わりに花荘院に向かって身を乗り出す。

「花荘院さん、何かガマさんに有利になるような情報はありませんか!? 昨日の晩、ガマさんがどこで何をしてたか……。どんな些細なことでもいいんです!」

 木場は足の痛みも忘れて叫んだ。だが、花荘院は重々しい顔つきのまま首を横に振った。

「非常に残念だが、次郎とはここ数年連絡を取っておらんのだ。当然、昨晩の行動も把握しておらん。せめて電話でもしていればよかったのだろうがな」

「そんな……」

 当てが外れ、木場は身体から力が抜け落ちていくのを感じた。これでは何のために来たかわからないではないか。

「本当に何もないんですか!? このままだと警部さん、殺人犯にされちゃうかもしれないんですよ!?」茉奈香も身を乗り出した。

「協力を惜しんでいるつもりはない。だが、ここ数年の次郎の動向については本当に何もわからんのだ。期待に添えず申し訳ないとは思うが」

 花荘院が苦渋を浮かべてため息をついた。部屋の空気が一気に重くなる。

「じゃ……じゃあ、これはどうですか?」木場がスーツのポケットから取り出した手帳を捲りながら尋ねた。「現場にいた目撃者が、犯人とガマさんのどっちかが『楓』と言うのを聞いたらしいんです」

「楓?」花荘院が片眉を上げた。

「はい。ひょっとしたら、何かのメッセージじゃないかと思うんです。花荘院さんのお庭にも立派な楓の木がありますよね。何か心当たりはないですか?」

 花荘院はすぐには答えなかった。瞑目し、じっと何かを考え込んでいる。木場は固唾を呑んでその答えを待った。鹿威しが、間奏のようにかこんと音を立てる。

「……残念だが、心当たりはない」

 花荘院がわずかに目を開いて答えた。木場はがっくりと頭を垂れた。期待した分、当てが外れた時の落胆はさっきよりも大きかった。

「うーん、困ったねぇ。結局振り出しに戻っちゃったよ」

 茉奈香が腕組みをして首を傾げた。木場も必死に手帳を捲った。何か他に、花荘院から聞き出せる情報はないだろうか。

「あ、そう言えば……」茉奈香がこめかみに手を当てた。「確か被害者の人の近くに、紅葉の葉っぱが落ちてたんだよね?」

「紅葉?」木場が聞き返した。

「そう。あ、正確には紅葉じゃなくて楓だっけ? まぁどっちでもいいけど、あれ、ひょっとしたらダイイングメッセージだったんじゃないかな」

「ダイイングメッセージ?」

 木場がまたしても聞き返した。何だかオウムになった気分だった。

「うん。そうじゃなかったら、死ぬ前に葉っぱなんか握り締めないでしょ。何か意味があったんだよ、きっと」茉奈香が確信に満ちた顔で頷いた。

「葉っぱのダイイングメッセージ、ねぇ……。花荘院さん、どう思いますか?」

 木場が花荘院の方に視線をやった。花荘院は黙ったまま2人の話を聞いていた。心なしか、眉間に刻まれた皺がさっきよりも深まっているように思える。

「……花荘院さん?」

 木場がおずおずと声をかけた途端、花荘院がかっと目を見開いた。その迫力に木場は思わず座布団から転げ落ちそうになる。

「あ、す、すみません! 急に声かけちゃって……」木場があたふたと言った。

「いや……こちらこそ驚かせてすまない。少し考え事をしていたものでな」花荘院が言った。「それで、何の話だったかな?」

「楓の葉のダイイングメッセージのことです! 何か意味はないんですか!? 花言葉とか!」茉奈香が勢い込んで叫んだ。

「楓の花言葉は、『遠慮』、『美しい変化』、『大切な思い出』……。いずれも、死の間際に残すようなものではないな」花荘院がゆっくりと言った。

「『美しい変化』に、『大切な思い出』……。綺麗な言葉ばかりですね」木場が言った。

「あぁ。『遠慮』は春に花が目立たずに咲く様から、『美しい変化』は、春から秋にかけて葉が色づいていく様から、そして『大切な思い出』は、四季折々で変化を見せる楓と、その時々の人々の記憶が結びつくことに由来するそうだ」

 花荘院はそう言うと、ふっと目を細めて庭の方を見やった。紅に染まる木々が、風に揺られてはらはらと葉を舞わせていく。その光景を見つめる花荘院の瞳はいつになく優しげだった。きっと彼の中にも、楓にまつわる大切な思い出があるのだろう。

「私から話せることは以上だ」花荘院が木場の方に視線を戻した。「力になれず申し訳ない」

「あ、いいえ……。こちらこそ、時間を取って頂いてありがとうございました」木場が姿勢を正した。

「数年連絡を取っていなかったとは言え、次郎が今も私の知己であることには変わりない。何か進展があれば知らせてもらえるだろうか?」

「もちろんです!」

 木場が勢いよく頷いた。この人、見た目は恐いけど、意外といい人なのかもしれないな。木場はそんなことを思いながら、暮れなずむ空を背にした楓の木々を見つめた。

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