忘れられた小屋

 西門を通って10分ほど歩くと、問題の小屋が見えてきた。

 小屋は壁にも屋根にもトタンが使われていたが、白い壁は雨に晒され続けたせいか濁って変色し、ところどころ錆びついていた。赤茶色の屋根にはいくつもの穴が空き、ちょっとの揺れで崩れてしまいそうに見えた。周囲には草が伸び放題になっていて、空き缶や煙草の吸殻がいくつも捨てられていた。誰からも忘れられ、うらぶれたその小屋は、まるで居場所を失ったサラリーマンのような悲哀を感じさせた。


「……何か、こう言っちゃ悪いけど、死体があってもおかしくなさそうな場所だよね」茉奈香が気の毒そうに言った。「誰か手入れする人いなかったのかな?」


「どうだろう。公園なら、管理人さんくらいいてもおかしくなさそうだけど……」


 木場が呟いた。そもそも、死体発見時はどういう状況だったのだろう。ガマ警部は死体と一緒に倒れていたという話だったが、警部が自分で通報したのだろうか。それとも、管理人か誰かがたまたま死体を見つけたのだろうか。


 考えてみても答えは見つからない。こういう時は、まずあの人に聞くしかない。 


 小屋の周りを行き交う捜査員の中から、木場が目的の人物を探し出すのに時間はかからなかった。着ているものは量産型の黒いピーコートだが、あの黒縁眼鏡は50メートル先にいても見分けられる。


「渕川さん!」


 木場が声をかけると、別の捜査員と話し込んでいたその男は振り返った。話していた捜査員に二言三言告げてから木場達の方に歩いてくる。


「これはこれは木場巡査殿! 確か今日はお休みだと伺っておりましたが?」


 男が眼鏡の角度を直しながら言った。彼の名は渕川勤ふちがわつとむ。今年で32歳になる木場の先輩である。これまでの事件では、木場とガマ警部が現場に到着するとお決まりのように彼がいて、彼から事件の概要を聞き出すのが常になっていた。


「そうなんですけど、ニュースでガマさんが逮捕されたって聞いて、じっとしてられなくて来たんですよ」


 木場が答えた。渕川は神妙な面持ちで頷くと、苦悩の塊のようなため息をついた。


「……自分は署でその知らせを聞きました。ですが、今も信じられません……。あの警部殿が殺人を犯したなどと……」


「当たり前ですよ! ガマさんが殺人なんてするはずがありません! 捜査員の人達だって、誰もガマさんが犯人だなんて思ってないでしょう!?」


「……それがそうでもないのです」


 息巻く木場とは裏腹に、渕川が気弱な口調で言った。沈鬱な様子で眉を下げ、ゆるゆるとかぶりを振って続ける。


「先ほど現場を調べましたが、状況は圧倒的に警部殿に不利です。おまけに警部殿自身、事件については黙秘を貫き、ご自身の関与を否定なさらない。それで余計に心証が悪くなり、警部殿を疑っている者も少なからずいまして……」


「そんな……」


 木場は返す言葉を失った。確かに自分が面会した時も、ガマ警部は自分が犯人でないとは言わなかった。だが、どうして? 黙秘を続けていれば心証が悪化することくらい、ガマ警部は当然わかっているはずだ。


「ふむ、こうなったら、あたし達の手で真相を解き明かすしかありませんね! 大丈夫、あたしがいる限り、警部さんを監獄送りになんかさせませんから!」


 茉奈香が意気込んで口を挟む。そこで初めて彼女の存在に気づいたのか、渕川が彼女の方を見た。黒縁眼鏡の奥の目が訝しげに細められ、木場の方に視線を移して尋ねる。


「あの、木場巡査殿、そちらの方は?」


「あぁすいません。紹介が遅れました。こいつは自分の妹で……」


「はじめまして!あたし、木場茉奈香って言います。法学部の4回生で、今は警部さんの代わりに、お兄ちゃんの助手を務めてます!」


 茉奈香が元気よく言うと、腰を折ってぺこりとお辞儀をした。渕川が機先を制されたような顔になってこめかみを搔く。


「は、はぁ……それはどうも。えーと、自分は……」


「あ、知ってますよ! 渕川刑事さんですよね! お兄ちゃんからよく話聞いてますよ。今年でもう32歳になるのに、未だに巡査部長に昇進できない、うだつの上がらない刑事さんだって!」


「あ、こら、茉奈香……!」


 木場が制した時にはすでに遅く、渕川が頬を微かに引き攣らせたのがわかった。早速地雷を踏み抜いてしまったらしい。木場は早くも頭が痛くなってきた。


「……あのな、茉奈香、世の中には、言っていいことと悪いことがあるんだよ」木場が小声で諭した。


「そうなの? でもホントのことでしょ。だってお兄ちゃんいつも……」


「あぁもうわかったから! ……で、渕川さん、今回の事件の概要なんですけど……」


 木場は気を取り直すように言ったが、渕川はがっくりと首を垂れて人差し指を突き合わせていた。ぶつぶつと何かを呟いており、恨みがましい言葉の切れ端が聞こえてくる。


「……わかってるであります。自分がうだつの上がらない刑事だってことは。同期の奴らはみんな順調に出世してるのに、自分だけがいつまでも巡査止まりで……。自分はきっとそういう星の下に生まれたんです。万年平社員でいることは、前世から決められた運命なんです……」


 背中を丸めて愚痴を垂れ流し、渕川は完全に自分の世界に入ってしまっている。これでは事件の情報を聞き出せそうもない。木場は困り果てて茉奈香の方を見た。


「おい、どうするんだよ茉奈香。渕川さんいじけちゃったじゃないか。これじゃ事件の概要が聞けないよ」


「あちゃー、ホントだね。よし、それじゃ、何か元気の出ること言ってあげないとね」


 茉奈香はそう言うと、呪文のように何かを呟き続けている渕川の傍まで歩いて行き、その肩に優しく手を置いた。


「渕川さん、大丈夫ですよ。渕川さんは正当に評価されてないだけで、ちゃーんと見てくれてる人はいますから。だから諦めないで、一緒に捜査頑張りましょう!」


 渕川が愚痴を垂れ流すのを止め、顔を上げて茉奈香を見た。まるで救世の女神を崇めような目つきだ。茉奈香は庶民に施しをするようににっこり笑って応えてやる。それだけで、渕川のやる気バロメーターが見る見る上昇していくのがわかった。

 

「わかりました! 他ならぬ警部殿のため、この渕川が一肌脱ぎましょう!」


 渕川はそう言って身体を起こすと、背筋を伸ばしてびしりと敬礼をした。自分に辛辣な言葉をかけたのも茉奈香だという事実をすっかり忘れてしまっている。実におめでたい人だと思ったが、木場は深入りしなかった。ポケットから愛用の手帳を取り出し、さっさと事件の情報を集めることにする。

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