障壁
急に知らない声がして、木場は思わず飛び上がりそうになった。
見ると、茶色いチェスターコートに黒い中折れ帽を合わせた男性が傍に立っている。帽子の下からはオールバックにしたロマンスグレーの頭髪が覗き、同じ色の綺麗に切り揃えられた髭を鼻と顎の下に生やしている。コートの袖からは黒い皮手袋を嵌めた手が覗き、躾の行き届いた子どものようにステッキの上に重ねられている。銀縁眼鏡の下に光る眼は悪戯っぽくきらめき、雑誌の紙面を飾る俳優のように口角がきゅっと上がっている。枯れ木の立ち並ぶ公園をバックにしたその姿は、優雅に散歩を楽しむ英国紳士にしか見えない。
「あ、あの、あなたは……?」
「あれー、僕のこと知らないの?おっかしいなぁ。4月に着任の挨拶して回ったはずなんだけどねぇ」
英国紳士が顎鬚を擦りながら言った。見た目とは裏腹にくだけた口調だ。
「き……木場巡査殿! この方は刑事部長ですよ!?」渕川が慌てて耳打ちしてきた。
「刑事部長?」
「そうです。本年度から着任された小宮山刑事部長殿です! 本当に覚えておられないのですか?」
木場は頭を捻った。そう言えば、新年度が始まって3日目くらいに顔を見たような気がする。ただ、あの時期は木場自身が一課に配属された直後で慌ただしく、誰が何の役職に就いたかまでは把握していなかった。
「ふーん、僕の名前を覚えてないんだ。まぁいいさ。僕は
小宮山は気にした様子もなく言った。刑事部長ということは限りなくトップに近い地位だが、意外と気さくな人物であるようだ。
「し、しかし……なぜ刑事部長殿が現場に?」渕川が目に見えて狼狽しながら尋ねた。
「あぁ、それね。ちょっと釘を刺しに来たんだよ。そこの新米刑事君にね」小宮山が木場の方を顎でしゃくった。
「自分ですか?」木場が自分を指差した。
「うん。君、確か今日は公休だったよね? 本部からの出動要請もかかっていないのに、どうして現場にいるのかな?」小宮山がちらりと茉奈香に視線を向ける。「それも部外者を引き連れてさ」
「それは……ニュースでガマさ……蒲田警部が逮捕されたと聞いたもので」
「上司のピンチに駆けつけたってわけかい? 話としては涙ぐましいけどねぇ。組織としては、君の勝手な行動を見過ごすわけにはいかないんだよ」
小宮山が言った。表情はあくまでにこやかであったが、その口調には断固たるものがあった。木場の方に向き直り、真正面から彼を見据えて告げる。
「単刀直入に言おう。木場君。君にはこの事件の捜査から外れてもらう」
「え……!?」
木場は目を瞬いて小宮山を見返した。鈍器で頭を殴られたような衝撃があった。
「そんな……どうしてですか!? だって自分はガマさんの……!」
「そう、君は蒲田君の部下だ」小宮山が木場の言葉を遮った。
「だからこそ、だよ。君はあまりにも被疑者との距離が近すぎる。そんな人間が捜査に加わっては、真実を見る目が歪められないからね。心配しなくても、事件は我々の手で解決する。君はさっさと家に帰って、年越しの準備でもしておくんだね」
「でも……!」
「これは忠告でもあるんだよ。君はこれまでも、鑑識を無断で使ったり、取り調べの最中に踏み込んだり、随分と勝手なことをしてきたそうじゃないか。まぁ、結果的に犯人逮捕につながったわけだし、蒲田君が監督を誓ったってことで多めに見てきたけどね。それでも今回は別だ」
有無を言わさぬ口調で言うと、小宮山は糸のように細められた目をうっすらと開けた。その目に宿る、冷厳な光が露わになる。
「今すぐここから立ち去りなさい。そうでなければ、君は生涯にわたって警察手帳を失うことになるよ」
小宮山が研がれた刃のごとく鋭い視線を木場に向ける。木場は咄嗟に反論しようとしたが、言葉が出て来なかった。
小宮山の言葉は正論だ。確かに自分は、組織のルールから外れた傍若無人な振る舞いをしてきて、いつ警察手帳を取り上げられてもおかしくなかった。自分が今日まで刑事を続けてこられたのは、他ならぬガマ警部の後ろ盾があったからなのだ。
木場は地面に視線を落とした。足元の土を、蟻が蛇行していくのが見える。その蟻を目で追いながら、木場は何だか自分みたいだと思った。どんなに一生懸命走ってみても、強い者に踏み潰されれば呆気なく命を終える。
しばらく項垂れた後、木場はゆっくりと右足を踏み出し、小宮山と目を合わさないまま彼の脇を通り過ぎた。周囲の捜査員の視線が注がれるのを感じたが、気にならなかった。
木場の意識は内側に沈み込んでいた。ガマ警部を助けたい気持ちはここにいる誰よりも強いはずなのに、何も出来ない自分の無力さが、もどかしくてならなかった。
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