プロローグ

 黒蜜音夜は知っていた。


 近所にある一軒家、そこの庭には、紺色のテントが広げられた状態で放置されていることを。

 その家で飼われているのか、それともただ入り込んでるだけか、真っ黒な猫が三匹、テントに出入りしていることを。


 昼間に家の住人を見たことがない。

 生活音も何も聴こえない。


 音夜はただ、黒猫と遊びたかった。

 姉の夜花を誘ったのは、ついでだった。


◆◆◆


「お母さん、なのかな。大きいのが一匹と、小さい猫が二匹。すっごく可愛かったよ」


 楽しそうに話す音夜。

 この時点では遠くから眺めているだけ。

 しかし彼は、今度は庭に乗り込むつもりらしい。

 いくら八歳といえど、住人の許しもなく留守中に足を踏み入れるのは犯罪。

 弟に罪を犯させるわけにはいかないが、可愛い黒猫を見たいのは夜花も同じ。

 見るだけだ。

 見るだけ。

 音夜にも自分にも言い聞かせて、二人は件の家へと赴く。

 今時珍しい平屋造りのそこは、カーテンは閉めきられ、物音一つせず、塀はあるもののそこまで高くないので、庭を見るのは難しいことではなかった。

 あまり手入れのされてない庭には、一人か二人入れそうな紺色のテントと、背もたれのない木製のベンチがある。

 テントはファスナーでほとんど閉められ、中を覗くことはできないが、よく見ると、下まで完全に閉まっているわけではなく、隙間ができている。

「あ、ほら」

 音夜が指差す先には、黒猫が三匹。

 大きいのが一匹に、小さいのが二匹。

 小さいのは同じくらいのサイズだが、片方には紫色の首輪がされている。

 三匹はベンチの下で昼寝をしていた。

「小さいの、前に見た時はどっちも首輪してたのに、今日は一匹しかしてない」

「……違う猫なんじゃないの?」

「同じだよ。全員私の可愛い猫。ちっこいのは区別つかねぇから首輪つけてんだよ」

 夜花と音夜は振り返る。

 知らない声がしたからだ。

「ヴァイオレットは大人しいが、ワインレッドはおてんばでな、すぐに首輪をボロボロにしやがる」

 知らない人がそこにいた。

 若い女性、二十歳前後か。

「興味あんなら触るか?」

 可憐な顔立ちには似つかわしくない言葉遣い。

 ニカッと笑うその様は、どことなく野性味がある。

「いいんですか!」

 音夜は前のめりに返事をし、ほらと差し出された手を簡単に取る。

「お姉ちゃんはどうするよ?」

 訊ねられた夜花は迷う。

 その手を簡単に取るべきか。

「お姉ちゃん、行こうよ」

 急かす弟、見下ろす女性。

「……よろしくお願いします」

 夜花だって黒猫に触りたい。

 女性の手を取り、そして三人は、庭へと入っていった。


◆◆◆


「作家先生の飼ってる猫に子供ができたみたいでな、全員を育てられないからって、飼い主募集してて、見に行ったら可愛いもんだから、二匹もらったんだよ」

 首輪をしてなかった小さな猫を膝に乗せ、女性はポケットから赤紫色の組み紐を取り出し、黒猫の首に緩く結びつける。

「じゃあ、お姉ちゃんが撫でてる大きい子は?」

 膝にすり寄ってくる、元々首輪をしていた小さな猫を撫でながら、音夜が訊く。

「うちで元々飼ってた子。姫紫っつーんだよ」

「……姫ちゃん」

 夜花が呼ぶと、彼女の膝の上で丸まっていた大きな黒猫は、ぷに、と短く鳴いた。

 猫の鳴き方としてそれが合っているのかは、どうでもいいこと。

 三人は、庭のベンチに一列に座り、それぞれ黒猫と戯れている。

「そこのテント、元々は末っ子の別宅だったのが、姫紫がよく出入りしやがって、ヴァイオレットとワインレッドが来てからは、黒猫達が完全に占拠。今や犬小屋ならぬ猫小屋だ」

「猫小屋」

 ぷーに、と威張るように鳴くと、姫紫は夜花の膝から地面へと跳び降りて、テントの中に入っていく。

「……行っちゃった」

 少し物足りなさそうな顔で見送る夜花。

 猫に首輪をつけ終えた女性は、その猫を地面に降ろすと、音夜の傍にいた猫も、地面に跳び降り、二匹は連れ立ってテントに向かう。

「あぁ……」

「あらら、入っちゃったな」

 女性はそう言うと立ち上がり、座る姉弟に向かい合う。

「もっと猫達と遊びたいか?」

「いいの!」

「……っ!」

 食い気味に返事をする音夜を、一瞬睨みつつも、夜花もまた、その申し出に内心歓喜している。

 夜花もすっかり、黒猫達が大好きになったのだ。

「今日はもうだめみたいだが、そうだな、私や妹達がいる時は、遊びにきてもいいぞ」

「やった! ありがとうございます!」

「……迷惑じゃないですか?」

 友達でもなんでもない、赤の他人。

 今日知り合ったばかりで、名前もまだ知らないというのに。

 女性は言う。

「迷惑とか思わねぇし。てか、お姉ちゃんくらいの子も、たまに遊びに来てるけどよ、知り合いになったの最近だぜ?」

 だから、いいぞ。

 謎に頼もしさすら感じる笑み。

「……じ、じゃあ……お願いします」

 黒猫の可愛さに勝てず。

 三人はそれぞれ名乗り合い、そして姉弟は家に帰った。


◆◆◆


 最初こそ姉と二人で行っていた。

 女性が迎えてくれることもあれば、妹のどちらかが迎えてくれることも。

 同じ女同士、夜花と彼女達は会話が弾むようで、音夜は黒猫達と戯れた。

 気付いた時には、別々に行っていた。


 楽しい黒猫との一時。

 だけど最初に、女性と約束をした。

 できないなら、二度と黒猫には会わせない、と。

 ──テントの中には入らない。

 ──テントの中は覗かない。

 夜花も音夜も、必ず守った。


 ワインレッドとは息が合い、猫じゃらしの遊びは毎度白熱し、いっそ家に連れ帰りたくなるほど気に入った。

 ヴァイオレットはあまり動かずじっとして、たまに音夜の足や膝にもたれかかり、好きに撫でさせてくれるので好きだった。

 姫紫はあまり近寄ってこない。夜花がお気に入りのようで、たまに一緒に行けば、姉の膝に陣取り眠る。


 時間があれば行く。

 そんな生活がずっと、多分子供でいられる内はずっと、許されるんじゃないか。

 音夜がそんなことを考えている間に──時は足早に進む。


「今日ね、こんな話をしたの」


 普段ならしない話題。

「自分の好きな動物と、どんな生活をしたいか」

 姉は既に制服を着る年頃に。

「茉冬はね、可愛い白熊と、大好きな家族と一緒に楽しく暮らしたいんだって」

 黒猫きっかけで知り合った近所の少女とは、姉と違い親しくない。

「私はさ、黒猫達と色んな所に行きたいの。ただの私でもいいし、ちょっと違う私でもいい、とにかく色んなことやりたいって」

 何故、そんな話をしたのか。

「──そしたらね、アンコさんが言うの。どっちも叶えてやろうかって」

 いつになく楽しそうだったから、相づちを打つしかできず。


 翌日、黒蜜夜花は姿を消した。


 どこを探しても見つからず、手掛かりもない。

 警察を呼んでも、家出扱いであまり真剣さを感じない。

 暗い雰囲気の家を抜け出し、向かうはもちろん、黒猫の家。


「……タイミングばっちりな」


 庭には女性の他に、姉の友人の兄もいた。

 彼女もいなくなってしまったのだ。

 少年達に、女性は訊く。


 ──あいつらの元に行きたいか?

 ──あいつらを連れ戻したいか?


「この庭みたいに、ただ遊びに行ってるだけのあいつらを」

 女性はテントに近寄り、膝を折り、ファスナーに指を引っ掻ける。

「多分それぞれ会えるさ。難しいことは考えず、ざっくり楽しめばいい」

 こちらの意見は訊かない。

 女性はファスナーを開けていく。

 初めて見るテントの中は──夜の星空が広がっていて。

「……いってら」

「いってらっしゃーい!」

 力強く背中を押され、音夜と姉の友人の兄はテントの中に頭から突っ込む。

「きっと危険はないだろうさ。……多分」


 それが最後に、音夜の耳に届く。

 星の海に頭から爪先まで一気に沈み込み、もみくちゃにされる。

 分からない。

 分からない。

 音夜は瞼を閉じた。


◆◆◆


 とある町にて、いなくなってしまった四人の少年少女。

 彼ら彼女らを知る者はおらず──否。


 庭を動き回る黒猫が、

 静かに過ごす黒猫が、

 寝てばかりの黒猫が、


 もしかしたら知っているのかもしれない。

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