墓場まで持っていく
黒蜜夜花が居間にて、学校で借りてきた本を読んでいると、彼女の弟である黒蜜音夜が静かに近付いてきて、こう耳打ちしてきた。
──お父さんの部屋、鍵かかってなかった。
「……そう」
夜花は本をテーブルの上に置き、周囲を見渡す。
学校が休みの土曜日、両親はどちらも仕事で留守にしており、小学三年生の夜花と、一年生の音夜の二人に留守番をさせることを良しとしなかった両親は、お互いの身内の誰かを呼んで、子供達の面倒を看てもらっていた。
今日は父方の叔母が来ているはずだが、彼女はソファーでいびきをかきながら眠っている。来た時点でかなり眠そうだったが、ソファーに座った数分後にはもうこうなっていた。
夜花達がこれからすることを、邪魔する大人はいない。
「行こうか、音夜」
音夜は黙って頷くだけだ。
◆◆◆
父親の書斎は、二階の一番奥にある。
物心ついた時には、仕事の邪魔になるから入ってはいけないと言われていたが、少し古めの一軒家にて、入ったことのない部屋はそこしかなく、中がどうなっているのかずっと気になっていた姉弟。
近寄っただけでも叱られ、酷い時には首根っこ掴まれて怒鳴られることもあったが、姉弟の好奇心が死ぬことはなかった。
隙を見ては近付き、扉を開けようとするが、毎度毎度鍵がかかっていて叶わず。
今日の状況は、またとない好機。
逃してしまえば、次はないだろう。
◆◆◆
音夜に後ろを見張らせ、夜花が
丸い木製の取手は存外冷たく、これからすることの若干の後ろめたさも合わさって、夜花は手を離しかけるが、背後に弟がいることを思い出し、そのまま掴み、回す。
音が出ないよう、ゆっくりと開けていき、
『──何を勝手に開けているのよ』
聞いたこともない女性の声が、部屋の中からした。
少女の低い声に聴こえれば、還暦をとうに過ぎた老婦人の声にも聴こえる。
「え、誰?」
「見ちゃだめっ!」
弟が振り返らないよう、鋭い声で制す。
夜花にはばっちり、その姿が見えていた。
──真っ黒な猫だ。
棚の上に登り、黄金に輝く瞳で、夜花を見下ろしている。
声は黒猫のいる方からしていた。つまりこの黒猫が、自分達に声を掛けてきたのか。
『早く閉めなさいよ』
「……っ」
黒猫は何もしてこない。
ただ、見られているだけ。
それだけのことだが、夜花は生きた心地がしなかった。
人語を話す時点でそもそもだが、その黒猫には何か、ただならぬものを、幼いながらに感じ取っていたのだ。
弟にあれを見せてはいけない。
夜花はすぐに扉を閉めた。
「……えっ?」
「……だめ、もうだめ」
音夜が振り向いた時には、夜花はもう、しゃがみこんで頭を抱えていた。
「お姉ちゃん?」
「近付いちゃだめだったんだ!」
それから夜花は声を上げて泣いた。
いつも前を歩き、笑顔で自分の手を引いてくれる姉のそんな姿に、何を見てしまったのかと音夜は怯えたが、それでも姉を宥めようとしたのだ。
大きな声を出したら、叔母が起きてきてしまう。
しかし夜花は泣き止まない。その内、寝ぼけた叔母の声と共に、誰かが階段を登ってくる音がした。
「おねっ……おねーちゃんっ!」
気付いた時には音夜も泣いており、そんな二人の姿を目にした叔母は、急いで二人を居間に連れていくのだった。
◆◆◆
結局、姉弟が父親の書斎に入ろうとしたことを、叱られることはなかった。
自分が昼寝をしていた為に、あんなことになってしまったので、それがバレることを恐れた叔母が、姉弟に口止めをしておいたのだ。
必要以上の賄賂(お菓子やおもちゃ)に、弟はとても機嫌を良くしたが、直接中の一部を目にしてしまった夜花は、素直に喜べなかった。
あの日以来、夜花が書斎を気にすることはなく、音夜が近付こうとすれば必死に遠ざけ、嫌がる弟にしきりに入ってはいけないのだと説教をする。
娘の変化には当然両親も気付き、母と父がそれぞれ、中に入ったか、何か見たか、真顔で訊いてくるから、夜花は「何もしてない!」と言い張った。
半ばパニック状態になりながら否定したせいか、それとも最近の行動を見てか、両親がそれ以上何かを訊いてくることはなく、音夜もその内、自分を止めては説教をしてくる姉がうっとうしくなってきたか、書斎のことを気にしなくなってきた。
黒蜜家の書斎は開かずの間。
話題にしてはいけず、
近付いてもいけない。
その存在は、忘れるべき。
だから夜花は忘れる。
あの日見たものを。
あの日聴いたことを。
忘れて、忘れて──忘れたフリ。
思い出してはいけないのだから、
思い出さないよう、蓋をする。
──気付いた時には数年後。
夜花は大学への進学が決まり、数日後には一人暮らしを始めることになっている。
淋しい気持ちもなくはないが、それ以上に、この家から離れられることに少しほっとしていた。
このまま何事もなく、無事に家を出ていければいいのに。
そう願いながら、荷造りをしていた──のだが、音夜が部屋に入ってきて、いつになく真面目な顔をし、こう訊いた。
「姉さん……あの時、何を見たの?」
願いもむなしく、蓋が開く。
あの時見た、いや自分を見下ろしてきた、黒猫の黄金に輝く瞳を思い出してしまう。
「……」
「これで最後にする。だから教えてよ、姉さん」
「……私、は……」
忘れたい。
忘れたい。
忘れ……。
「──何の話をしているか分からない」
「えっ」
「もしかして小さい時の話? そんなのいちいち覚えてないわよ」
「姉さ」
「雑談してる暇ないからさ、手伝ってくれないなら出てってよ」
「……」
何か言いたげな顔で、まるで出ていかない弟に、姉は言う。
「手伝ってくれるの? じゃあ、タンスの服や下着か、本棚の商業本か同人誌の箱詰めお願いしていい?」
そう言ったら、音もなく出ていった。
夜花は吐息を溢し、作業を続ける。
あんなことは、弟に言わなくていい。
弟も忘れたらいい。
全部全部忘れて──そうして墓場まで、持っていくのだ。
夜花はまた、記憶に蓋をするのだった。
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