第10話

 月曜日。十月晴れた秋。

 家を出ると目の前に五反田がいる。

「よう」と片手を上げて、「昨夜はお楽しみでしたね」

「バカ!」

 通学鞄を彼の胸元に叩きつける。

「ずーっと見てたんでしょ。知ってるんだから――つーか、目合ったじゃんっ」

 彼が「ウッ」と呻いたのは肉体的なダメージか、はたまた事実を突きつけたからか。おそらく両方だろう。

 七度に渡る野球観戦もといデートにつけていた五反田・香織両名を毎度毎度私は見逃さなかった。酷い時などは、カラオケ・ボックスでいざ挿入ッ、のタイミングで扉の向こうであんぐりと口を開ける彼と――そのとき私の口からはそそり立つ男性器が出たところであったが――ばっちりと目が合った。カクテル光線、ではなく三原色にギラつくカラオケ・ボックス特有の照明に照らされた私の瞳は、紛れもなく彼を捉えていた。

 無論、その記憶は彼にはない。今彼が立つ世界戦にはチョコバナナを頬張る私はいない。いるのは、「あ~あ~果てしない~」の高音キーを歌ってのける私と、下パートを強引に田端クンに押し付ける私しかいないはずだ。もちろんそれも覗いていたのを知っている。

「あんまりいい趣味してないわね~」

「いや、俺はだな。幼馴染として……」

「幼馴染ならストーキングしていいわけなの?」

 くぬっくぬっと打撃を継続的に加える。「やめろよッ」と彼は言うが、どことなく様式美めいた、まんざらでもない様子。

 まんざらでもなさを見届けて、「じゃあ行こうかッ」と打撃をやめ、今度はその手に彼の手を取る。

「ウッ」とまたしても呻く。というより、怯む。

 意に介さず、彼を引き連れて道を進む。

「おいおいおい、どういうつもりだよ。こんな公衆の面前で手なんかつないでさ、お前こういうの……」彼が言い淀んだので、

「こういうの?」と悪戯っぽく笑う。

「こういうの……どうかと思うぞっ」

 そう言って手を振り払う。

「なんだよ、減るもんじゃないのに」

 ちぇっ、と言い、それ以上は深追いしない。なんかちょっとおかしいぞ、とかぶつぶつ言っているが気にしない。

 何事も無かったかのように、私は矢継ぎ早に「昨日はどうだった?」とか、「香織に何て言って誘ったの?」や、「あのピッチャーより五反田の方が良かったって、田端クンが言ってたよ」などと、会話を繰り出す。

 初めの方は返事に窮していた、もとい戸惑っていた彼も、直ぐに「どうだったって……全部知ってるだろっ」とか、「香織から誘ってきたんだよ……本当だぞっ」だとか、「いや、やっぱりレベル違うよ。プロは違うなって、改めて思ったね、ウン」などと通常運行に立ち直っていった。

 そのままダラダラと会話を繋ぎ、電車に乗り込み、朝練に向かう彼に「じゃあ、また放課後ねッ」と言い、校門で別れる。

「おうっ」と答えた彼の語調から、私に掛けられた懸念は完全に拭えたと知る。そこで今日初めて心から息を吐く。

 そう、何も意味もなく男子高校生との会話を重ねたわけではないのだ。今朝起きて――引き続き全裸ではあった――思考をフル回転させた結果、次に取るべき打ち手を自分の中かに見出した。

 題して、「幼馴染はやっぱり幼馴染で、それが王道じゃんよ」作戦。作戦、というより指針に近いものだが間違ってはいないはずだ。

 論拠はこうだ。

 この物語――敢えて物語と捉えるが――の男性の登場人物はほぼ三人しかいない。幼馴染の五反田、ライバル(的)キャラの田端クン、お金持ちの代官山先輩。上から、本命、対抗、大穴の順だ。大穴はほぼないだろう。そして対抗もおそらくダメ。だとすると、本命しかない。何の本命かというと、私と契りを交わす本命。昨日の思考の通り、契りを交わすまでをゴールと規定したい。

 そうなると、やはり本命しかない。しかし、本命とは言ってもなにも痴女の如く迫ってはいけない。第一話で幼馴染と合体する漫画がどこにある? レディースものでは第一話で合体してから、じゃあスタートねという作品は昨今珍しくなくなってきたが、流石に幼馴染と、という例はまだ見たことはない。しかもそのレディースものも、あくまで愛のないセクロスだ。最終的に愛のあるセクロスを取り戻すまで――愛をとりもどせ‼――までは随分の時間を要する。むしろその方が、出会って5秒でセクロスよりも難易度が高いのではないだろうか。少なくとも、私はそう思う。

 翻って、このシチュエーションの正解は。「幼馴染と紆余曲折を経て最終的にゴール・イン」という最高に王道のパターンを踏襲することに他ならない。この仮説がもし間違っていたら、私の脳髄はシェイクされ続け時空の狭間を永遠に彷徨うことになるか、あるいは鋼鉄の処女として一生を過ごすことになるかのいずれかだ。いずれにせよ、避けたい。

 この紆余曲折というのがミソではあるが、私の考えでは昨日のデートで、高校生的には紆余曲折の必要量を満たしている。だって、ライバルとデートしたんだぜ? それで十分じゃない? という判断。

 そしてその禊が今朝の軽快なトークになる。

 さながら杉村をフった後の雫ちゃんの如き動きであったと、自負している。鈍いのは私じゃない。お前だ。むしろ、私はキレッキレだ。この一連の会話で、「昨日は何もなかった、あなたが本命ですよ」ということを五反田に意識づけることに成功したはずだ。

 と、いうことを天井を仰ぎイチゴ・オレを飲みつつ耽っていると教室の後ろ、扉がガラりと開いて香織が顔を出す。一瞬で「ヤベっ」という顔をした彼女にとびかかり、ヘッドロックをキメる。

「香織~昨日は世話になったわね~。全部ナオトから聞いたわよ~」

「あ~! タンミタンミタンミ! ロープロープ!」

 手足をバタつかせる香織。まんざらでも無さそうなのは、触れる肌と表情で良く分かった。

 女の友情も、どうせこれで回復するんだろう? チョロいぜッ。


 ☆


「「「ありがとうございました!」」」

「うむ、苦しゅうない!」

 遂に野球部の三下共が私にひれ伏し始めた。

 デートから丸二週間。秋の日は踵落とし、というまあ光陰矢の如しというペースで毎日を消化する。

 無論、無策に毎日を消化した訳ではもちろんない。

 デートから明くる月曜日には田端クンとそれなりにイチャイチャして見せた。

「昨日はありがとう。とっても楽しかったねッ」グラウンドで彼を見つけるなり、先制する。

「ゲエエーッ! 田端さんってそういうお人だったんですかァーッ!」

「オイオイオイ死ぬわアイツ死ぬぜ」

「ゲボーッ!」(大崎マコトの陰ながらのファン)

 と諸々野球部の下僕達が囃し立てる中、

「おいおい、そんなんじゃないって」と澄ました顔の田端クン。「神宮に消化試合見に行っただけだよ。ホント、それだけ」

「えー、でもそのあとカラオケにも行ったじゃんっ」

「「「な、なんだってー!」」」

「いや、それは言ったけど」とロコツに戸惑う田端クン。「でもそんなのオマケで、それはまあ……いいじゃないかっ」

 練習始めるぞっ、と全てをうやむやせんとするその大声に、配下の面々は渋々といった面持ちで従うが、

「クソっ。あの帰国子女め。ちょっと顔がいいからって」

「暗い夜道には気を付けろ。特に、月明かりの晩にはな!」

「ゲボー……」(大崎真マコトァンクラブ会員)

 不平不満は止まない。

 もっとも、掃除当番で遅れて来た五反田が来たときには、噂話はぴたりと止んだ。

「ん? どうした? 俺何かした?」

 一同、顔を見つめ合って、「ねえ」とばかりに同情を寄せる。

「いやいや、なんでもないですよ。王子様も大変なんだなーと思いまして」

「あいつを殺して俺も死ぬ。俺の屍を乗り越えてゆけ」

「ゲボゲボ」(大崎マコトァンクラブ会長)

 哀れむ面々。三下共の認識としては、「五反田の女を田端が食べた」ということに落ち着いたらしい。

 計画通り! というものである。


 そんな撒き餌を続けて二週間という頃合い。

 その間もいちゃこらに精を出しつつ、鬼軍曹よろしくなノックの雨を降らせていたところ、三下共の認識が「エースの女。ちょっとかわいい」から「現代に蘇ったハートマン軍曹」や「一人伊東キャンプ女」などに移り変わったのだけは予想外だったが、それ以外は順調そのものだった。「ちょっと当てつけに顔がいいライバルを突かず離れずの関係、それに本命がヤキモキ」というシチュエーションの構築は、極めて順調た。

「貴様ら雌豚があたしの訓練に生き残れたら、各人が兵器になる。甲子園に祈りを捧げる死をもたらす者になるだろう。しかし! その日が来るまでは貴様らはウジ虫だ! 地球上で最も程度の低い生物だ。もちろん貴様らは人間ではなく、ミジンコのクソをかき集めたほどの価値しかない!」

「「「イエス、サー!」」」

「声が小さい! どこかにキンタマ落としたか!」

「「「サー、ノー、サー!」」」

「分かったら持ち場に散れ、このウジ虫共!」

「「「サー、イエス、サー!」」」

 噂が噂を呼び見物人まで現れるようになった頃合い、三下共は順調に兵器に成り上がっており、これはこれで本来の目的ではないがなかなかに達成感があった。

 新兵共のケツを蹴り飛ばして一日の演習を終えた。さて、そろそろ部室に微笑みデブがドーナツを隠していないかどうかの確認にいくか――と大きく伸びをしたところで、後ろから五反田が。

「もうすっかり良くなったみたいだな。もう前みたいに――というより、前より元気なんじゃないか?」

 彼は投手なので地獄のブート・キャンプには参加していない。そのため、疲労度は三下共と大違いで、どこかのほほんとして見える。

「そ、そんなことないわよっ。まだまだ本調子じゃないし。もっと彼らの○○をシゴき上げて――」

「やっぱりもう十分元気じゃないか。ホント、元気すぎるくらいだ」

「そうかな、まだそんな感じはしないんだけど……」

 しおらしく、しなを作っておく。バッティング・グローブには血が滲んでいるが、それは見なかったことにしておく。血の滲んだその手は純情可憐な女子高生には似合わない。

 五反田が声を出して笑う。

「いや、ホントホント! 学校でマコトが何て言われているか知っているか?」と言って、つらつらと「女版ハートマン」「大崎軍曹」「鬼の大崎」「罵られたいミス華桜」「歩く人身事故」「帰ってきた牟田口廉也」……などなど罵詈雑言を浴びせて来たので、

「……なによ、文句あんの? もしかしてアンタもそう思っているワケ?」

 じっとりとした目で問い詰める。秋の薄い夕張、日差しが二人を照らす。

「いや、全然そんなつもりはないんだけれどさ」明後日の方向を見ながら五反田が続ける。「いや、ホント元気そうでなにより。なんかみんなが羨ましくて、さ」

 ――ハイ、燃えてます嫉妬の炎! 作戦はほぼ成功したようなものですわ。

 そう、この瞬間の為に――というのは8割くらいであとの2割はサディズムを全開にしたかっただけではあるが――鞭打ったかいがあったというものだ。

 ライバルキャラとキャッキャウフフしつつ、回復ぶり、つまり記憶の混濁から復帰した私を見せつけることで、少しの疎外感と嫉妬心を彼の中に養う。それをフォローすることなく、日常を淡々とこなすことで、彼の中にぽっかりと空いた空洞を大きく育てる。

 放置で育つなら、それほど楽なことはない。私は田端クンとよろしくしつつ、鬼のようなノックを浴びせるだけでよかった。それだけで、この男は私の必要性を再認識する。

「そ!」と言って、手をぱんっとはたく。「じゃあ私はウジ虫共のファッキン・ファッション・チェックがあるから」

 そう言って部室連に向かう。バットとケツをふりふり。誘っているわけではないんだけれど。

「あのさっ」五反田が夕日に話しかける。叫ぶとまではいかないが、少し大きい、気持ちの入った声。

「校門で待ってる。どこかで晩飯でも、どう? 今日ウチ親いないんだよね」

 グっと心の中でガッツポーズ。しかし表には出さず、ノック・バットをブンと振り回す。

「いいわよ。じゃあちょっと待っててっ」

 これはもう勝ち確です。


 新兵共に、

「貴様ら今日は良くやった! そこの微笑みデブも今日は好きなだけ食べて良い。しかし忘れるな、貴様らのタマはこのあたしが握ってるということをな! せいぜいジジイのファックみたいなへっぴり腰を今日は休めることだ! 返事は!」

「「「サー、イエス、サー!」」」

「マスを掻くのは3度までにしておけよ!」

「「「サー、イエス、サー!」」」

「そこの微笑みデブ!」と控え捕手のデブに声を掛ける。

「サー、自分でありますか、サー!」

「お前以外に誰がいるというのだ! 今晩お前は、誰でマスを掻くつもりだ!」

「サー、軍曹であります、サー!」

「貴様のファッキン・ディックであたしが貫けるとでも思っているのか!」

「サー、ノー、サー! 自分は空想の中で軍曹を――」

「誰が口を利いてよいと言った! 質問にのみ答えろ!」

「サー、イエス、サー!」

 といういつも通りの押し問答を繰り広げた後、

「それでは休め! 休むのも訓練だ! 道具の手入れを忘れるなよ!」

「「「サー、イエス、サー!」」」

 近づいただけで妊娠しそうな臭いを発している部室の扉を閉める。奴らも直ぐには騒がない。シンと静まったこの夕暮れが、私の好きな時間だ。


「ごめんごめん、待った?」

 明日の訓練メニューをゆかりちゃんらマネージャーと考えていたら、少し遅れてしまった。マネージャー陣も、順調にハートマンに育っていたので、ファッキン・トークが弾んでしまったのだ。

「いや、そんなに待っていないよ。それよりごめんな、急に誘って」駅に向かって歩いて、「よかった?」と続ける。

「ううん、別に。何も用意してなかったから!」

 洋画ならここで腰に手を回して喜びを表現するところだが、そうはしない。なぜなら私は純情可憐な女子高生で、普段――になりつつある――の鬼軍曹からのシフトチェンジを狙っていたから。

 仕上げはこのギャップで落とす。これでミッション・コンプリートは近い。

「どうせなら、私の家で食べない? ご馳走するわよ?」

「え、マコトの料理か……」

「なによ、文句あんの?」

 彼は首をぷるぷると振って、

「いや、滅相もない。なんにも。ただ――」

「ただ?」

「食べられるもの、出してね?」

 そう言えば、この女がどれほど料理が出来るのかは私は知らなかった。

「前は何出したっけ?」興味本位で尋ねてみると、

「うーん……」と考え込んで、一言。


「食べられないもの」


 ☆


 ざっとこんなもんだろう。

 食卓を彩るのは肉じゃがやお浸し、簡単なサラダなどご家庭料理の定番メニュー。別に上手でも下手でもないが、女子高生の作る料理としては及第点を大きく上回っているはずだ。少なくとも、この大崎マコトが今までに作って来た創作料理よりは、はるかにマシなはずで、

「マコト……こんなの作れたのか? いつのまに?」

「イイ女ってのは、こういうのを欠かさないものよ」

 そう言って食卓の仕上げに冷蔵庫からビールを取り出す。

「お、おいっ」

「堅い事言わないの。実もビールくらい、飲んだことあるでしょう?」

「いやまあそうだけど」

 恐る恐るプルタブを引く五反田。ウブな彼のその指先にあえて注目する。酒に慣れている女子高生、ということで先制してマウントをとる。

「それじゃあ今日もお疲れ、カンパーイッ」

「か、かんぱーい」

 こちらのほろ酔いと、向こうのプレモルでアルミ缶を鳴らす。おっかなびっくりにビールを飲むイケメン男子高校生。これは劣情を催すのも無理はないだろう。

 という内心はやはり臆面にも出さず、

「さ、食べて食べて。冷めちゃうよっ」

「あ、ああ……」

 見た目麗しい、家庭料理としては上出来なこれらを見てもまだ信用鳴らないのか。旧大崎マコトはどんなものをこしらえていたのか、気になるが今は検証できないのが惜しい。「黒こげの何か」だとか、「砂糖と塩の間違い」など、あり得ない漫画的な表現が頭によぎる。

 肉じゃがを箸に取り、ごくりと喉を鳴らす五反田。

「……なによ、まだ信用してないっていうの? こーんなに手間暇かけて作ったのにっ」こーんなに、で手を大仰に広げる。

「いや、信用してないワケじゃあないんだけれど、その、前科があるから……」

 前言を撤回する。おそらく旧大崎マコトはとんでもないものを創ったようです。素人の創作料理ほど恐ろしいものはない。BC兵器の一つに数えてもよいくらいだ。

「もう、じゃあほら」

 そう言って、肉じゃがの人参を箸に取り差し出す。

 要すれば、「あ~ん」。

「ほら、口開けて」

「ば、なにやってんだよ」と赤面する五反田と、

「ほら、いいから!」と意に介さない私。

 う~ん、と逡巡の後、ええいままよとぱくつく五反田。最初からそうすればいいものを。

 初めのうちは怪訝な顔をしていたが、毒ではないと分かり、食べられると分かり、味があると分かり、美味しいと分かる様がそれこそ手に取るようにわかった。

「どう?」

 ふふ、と笑って尋ねると、

「いや……どうした? 全然食べられるじゃん。お前の料理ってだって、ロクに料理とはお世辞にも言えないようなものばっかりで、そりゃあもう。去年のバレンタインなんか爆弾岩みたいなの渡してきたし。もっと言うと、小学校の家庭科だって一人だけそれこそ生物兵器みたいなモンこしらえてさ、食べさせられる方の身にもなってみろよ」

 そんなことをぶつぶつ言いながら、肉じゃがを食べる。

「でも、今は食べられるでしょ?」

「いや、むしろ上手なくらいだ。お前こんなのどうやって、というかいつの間に……」

「内緒っ。乙女には秘密の一つや二つあるもんよ」

 本当はとんでもない秘密を隠し持っているのだが、もちろん言わない。言ったところで信じて盛られるかは甚だ疑問ではあるけれど。花の女子高生、一体誰がその中身をいい歳のお兄さんだと思おうか、いや思わん。

「まっ、そういうことだからたーんとお食べよ。育ち盛りなんだからさ。たっくさん作ってあるからねっ」

 ではでは、とこちらも自分の料理に橋を付ける。うむ、問題ない。予想した通りの味だ。

 料理というのは本来的にレシピ通りに作れば上手くいくようになっている。さながら理系学生の実験のようで、再現性を極めれば再現性のある料理がもちろん完成する。それを感覚で誤魔化そうとするから世の中には愚にもつかない創作料理が溢れるのである。

 もちろんこんな不必要な蘊蓄は語らず、理系マインドに基づいて完成した実験結果たるそれを、男子高校生がぱくつく様子を聖母の眼差しで眺めるだけ。

 当然、これも作戦の一つである。大崎マコトがろくすっぽ料理が出来ないというのは大きなアドバンテージだった。想定外のグッド・ラックは生かさなければいけない。一人暮らし歴の長い男子というのは、世間が思っているより料理が出来るのだ。

 野蛮な鬼軍曹から聖母へのギャップは筆舌にし難いものがあるだろう。しかしこちとら慈善事業でやっているわけではない。しっかりとかかったコストを回収せねばならんのだ。

 そんなこともつゆ知らず、旨そうに撒き餌をほおばる本命イケメンこと五反田ナオトをずっと見ていた。


 ☆


「じゃあ洗い物、よろしくね~」

 テーブルの上があらかた片付いた。さながら嵐が通り過ぎたよう――というよりは上品に召し上がられた様子。それでも食器の中身は全て空だ。

「はいよ。ごちそうさん」面倒そうに、しかしどこか満足そうに立ち上がる五反田に、

「ふふふ、どういたしまして」と微笑み返しを炸裂させると、

「なんだよ気持ちワリぃな」と眉間に皺を寄せたが、「――でもホントに美味かったよ。ごっそさん」

 男を掴むのは胃袋から、というがまさにそれを今実感している。実感させられる立場でなかったのが男子としては残念ではあるが、いずれにせよかなり有効な手段であることは歴史が証明しているし、そして今回も蓋し有効であった。現代社会では、男子厨房に入らずなマインドセットを持つ人々が想定しているよりも、料理の負担は遥かに減少している。

 インターネットにはレシピが溢れているので、母から姑から何かを習う必要はない。しかも、簡単お手軽な調味料もどき――特に中華料理に効果を発揮する――のクオリティも右肩上がりだ。加えて、彼ら男子高校生はコンビニや総菜で普段の生活を凌いでいるため、ちょっと温かい手の込んだように見えるエサを与えて置けば容易に感動してくれる。つまるところ、今が料理のしどきなのだよ全国の女性諸君っ。

 テレビのザッピングをしながら思いに耽る。――何はともあれ、第一段階はクリアだ。

 問題はここからどうするかだ。相手の気分高揚も多分バッチリ、好感度も十分に上げた。あとは、どうやって寝技に持ち込むか、だ。

 居間。ここでやってしまおうか――という案もある。変哲のない、一家団欒の場。絨毯が敷かれ、ソファがあり、テレビがあり、そして家族の写真がある。なので、雰囲気としてはいまひとつと言わざるを得ない。誰も相手の家族の写真が見つめる場所でおっ立てたい人はいないだろう。

 さすれば、風呂場か――と考える。泡のお風呂もいいかもしれない。ただし、陰毛リンスのあるあの空間は少し手狭ではある。私は別にいいんだけど、おそらく雰囲気という意味ではまた弾かれるはずだ。

 となると、やはり私の寝室しかないだろう。ベスト・アンサーかどうかは分からないが、ベスト・エフォートであることは間違いない。

 ゴールは決まった。じゃあ次の問題は、どうやってそこに持ち込むか、だ。

「洗い物終わったぞ」手の水滴を払いながら五反田がソファに座る。「あらためて、ごちそうさん」

 本来ならばこの男から声を掛けるべきなのに――と思うのは、お門違いだろうか。もし私が男で逆の立場なら、据え膳食わぬは武士の恥ということでルパンダイブの一つでも敢行しているところだ。それなのにこの男は――

「な、なんだよ」じっと見つめる私の眼差しを曲解したのか、五反田が戸惑う。「まさか、金払えって言うんじゃないだろうな」

 あはは、と笑って返す。「まさか! そんなわけないじゃない。流石にお金取れるほど上手じゃないよ」

「いやでも、お前が作ったなんて全く想像できなかったよ。どこかにお母さんでも隠れてるんじゃないか?」

 やだ~もう、と言いつつ彼をどつく。

 よしこれだ――チャンスはここしかない。

 どついた瞬間にもちろん彼は避けた素振りを見せる。実際見せた。ソファに腰かけた彼はそこまで動きにゆとりがある状態ではない。案の定、動きは僅かに横に逸れただけ。

 そこをバランスを崩した――ように見せかけた――私がしだれかかるという寸法で、果たして目論見通り私の胸は彼の膝の上。

「ご、ごめん」敢えて彼の膝の上から、顔を少し上げて言う。

「お、おう」ラッキー・スケベに近い状態だが、「は、はやくどけよ。そんなに――」

「そ、そうだね。ごめんね」と言って、彼の体と自分の体を滑らせ、最初に座っていた場所より大分近づいて座りなおす。やれやれ、童貞を相手にするのは距離を詰めるのにも一苦労だ。

 気まずい沈黙が一瞬流れる。

「「あ、あのさ」」と二人が言ったのは同時で、「「ど、どうぞ」」と二人して譲り合ったのもほぼ同時だった。

「私の方は大したことないから」そう言って引く。実際大したことは無く、何を言おうとしたのかもはや忘れてしまったくらいだ。お喋りして場を繋ごう、という思惑は憶えているが、その程度。

「お酒、まだある?」と少し遠慮がちに、しかし物欲しそうな声で五反田が訴えてきたので、あからさまに彼に見えるように「にやっ」と笑い、

「未成年じゃなかったの?」

「先に薦めたのは誰だっけ?」

 はいはい、と女房よろしくで冷蔵庫にビールを取りに行く。味も分からないような高校生にビールはもったいないので、発泡酒にしようかと思ったが、まあ今晩わたしが食べる相手だし、と思い直しやはりビールを持っていく。

 ぽんっ、と投げて渡すと「おっとっと」と言いつつ受け取り、少し振られた缶のプルダブを引く。

 プシュっと噴き出たビールが五反田の顔を濡らす。

「あ~あ、もう汚いんだから」

「投げてきたのはお前だろうが!」

「ほら動かないの」とティッシュで彼の顔を拭う。さながら女房気取りだ。

 もちろん缶を投げたのも、中身が噴き出したのも、彼の顔を拭いたことで彼が少し赤面した――お酒のせいもあるだろうが――のも、計算ずくである。全てはゴールから逆算するべきだ。

 気持ちよく喉を鳴らしてビールを飲む彼を眺める。

 身長も高くて、顔も整っている。流石に体重が軽すぎて少年の肢体を抜けきらないが、悪くはない。いわゆる高身長の美形だ。

「な、なあんだよ」

 少しろれつの回り切っていない彼がそう言う。このまましだれかかっても文句は出ないだろうか。

「な、なんでもないよ」

「なんだよ、俺の方ばっかり見て」少し目が座り始めている。このまま私が押し倒しても、おそらくは問題ないだろう。

 よし、ここが一発女の大勝負だ――というタイミングで、すんでのところで気が付く。

 これは、シチュエーションとして全然ダメなのではないだろうか。幼馴染を家に招き、手料理をご馳走する。ここまではいい。しかしだ。酒に酔わしてあげくの果てに女から押し倒す、というのはシチュエーションの女神が微笑んでくれるだろうか。少なくとも私が女神なら、「なかよしからやりなおせ! いきなりフィーヤンしてんじゃねーよ!」と頭をスリッパで引っぱたくだろう。

 見やると、前に後ろに船を漕ぎ始めているではないか。酒の入れすぎだ。これはいけない。

「ね、ねえ。DVDでも見ない?」まだ時間も早いし、と続ける。

「おう」と乗り気なのかどうなのか、気のない返事。酒に飲まれているだけだろう。酒を飲んでも飲まれるなよ。

 じゃあ私が選んじゃうね、とテレビの脇のDVDボックスをまさぐる。私にとっても未知のゾーンだ。この家の隅々まで調べているわけではない。

 まさぐると、出るわ出るわ。役に立たない映画が。

 警察モノロボットアニメの劇場版。個人的にはⅢが好みだが、ここでは相応しくない。カニがサッカーしたり、イカがボクシングをしているキワモノもある。プロジェクトAの隣にプロジェクトA子がある。

 いずれも名作。不朽の名作である。しかしこれから男女の契りを交わさんとする二人が見るにふさわしい作品とは思えない。しかも全部微妙に長い。そんなに私は待てない。だって――据え膳なのに!

 ラインナップに絶望して、週末にこのへんはまとめて見るか――と思い始めた視界に、きらりと光る救世主が。

 もはやこれまで、とその一本に全てを賭ける。


 ☆


『ああ、やっぱり僕は好きなんや。そう感じていた』

 でででーん、と画面が切り替わる。ピアノの音が流れる。

 部屋を薄暗くして二人して画面を眺めていた。

 そして私は思った。

 ――チョイスを間違えたような気がする。

 こんな純の純愛みたいなお話を見た後に、生々しいセクロスをするような人間はどれほどいるのだろうか。というか、私は出来るのか果たして。そういう気分ではなくなってしまうのではないのか? これが初めに放送された金曜日、視聴率は20%弱。その割合のカップルがこれを見て、その後どうしたのか! それを私に教えてくれよ。

 ちらり、と横目で五反田の様子を伺う。彼もこちらを見つめる。

 そう言えば上映中、ほとんど――いや、全くこの男は喋らなかったな。それほど映画に見入っていたのか。女の家で映画を見る時に、映画を見てどうするんだ。一体何を見ているんだよ。いや、それを高校生に求めるのは酷ではないだろうか――

 という思考を巡らせていると、彼がぐいと迫ってきて、そのまま唇を奪われた。

「んっ」

 声にならない声が漏れる。たっぷりディープなやつではなく、ソフトなでも気持ちの入ったやつだ。やるじゃん、五反田。

 顔と顔が離れる。エンディングが終わりそうな画面、青白い光が私たちを照らしている。イイ感じだ。悪くはない。ベストではなにが、悪くはないムードだと思う。

 今度は私からしだれかかった。押し倒す形で唇を奪う。一瞬だが、時間が粘性を帯びた。唇が離れる。でも肢体は彼に抱きしめられ、離さない。股間の怒張が布越しに伝わる。

「ねえ――ちょっと当たってるんだけど」

 彼の顔を手で覆っていたが、体温が一瞬で沸騰したように思えた。

「し、仕方ないだろ」

 ああ~っ、そこでキョドるあたり童貞感がにじみ出ていて、そしてそれはそれでOK! 何故ならイケメンだから。

「ねえ――部屋に行かない? ちょっとソファはすることするには手狭かもしれないから」

 待機映像に戻った画面に照らされた彼が、コクリと頷く。


 ☆


「じゃあ、今日はごちそうさま」と言った彼を玄関で見送った。

 パタン、と閉じた玄関にへたり込む。

 ――正解はなんだァ! と叫びたい気分だった。そしてもうシェイクは流石に勘弁願いたい。シャレにならない段階に完全に踏みこんでいる。今までが交通事故レベルだとすると、そろそろ超宇宙規模の隕石衝突もかくや、というばかりに至った。特に二度目は正気を保てるギリギリのレベルで、復帰したあとも一時間ほどはまともに動けなかったほどだ。映画を見て誤魔化したが、口から泡を吹いていたのを見られたかと思うと、無いはずの乙女の恥じらいも出てくるというものだ。

 ソファでイイ雰囲気になった。それで部屋に持ち込んだ。それなりの手続きを踏んで、ゴム製品もわざわざつけさせて、コトに及んだ。指は入ったが、それで終わった。モノを入れようとすると時空の神様から「まだお前にははやい」とのご意見を、天地が歪むほどの呪力のねじれでもって拝受した。

 ここで終われば女が廃ると、DVDを見る前の時空に帰還した私は同じDVDを見て、全く同じシチュエーションを作り出し、ねっとりと前戯に時間をかけてコトに及んだが、及ばず。時空の神様は私を見放したらしい。どうやら神様は女神だな? しかも潔癖症の。

 流石に三度目は体力的に難しく、また現状これ以前の改善策は浮かばなかったので彼には退場してもらった。過去二回の経験上、彼の気持ちの高ぶりは、それはもう想像に難くなくまた筆舌にし難いものであり――というより、怒張したそれを過去二回は頬張ったと言うこの上ない経験もあり――、気の毒な彼にサヨナラばいばいするのは非常に気が引けたが、「(あの日が)きちゃった」という避けがたい理由につき、ご退出願うことで一応の決着を見た。男側からすると、「じゃあ誘うなよ」と思うだろう。少なくとも私はそう思う。

 というわけで、今日の、というよりここ二週間の試みも敢え無く失敗に終わったワケだ。浪費したのは体力と、時を駆ける権利。無論後者の消費が痛すぎる。タイミングが良ければ、私が泣き叫んだタイミングで救世主が残り回数を追加してくれているのだろうが、どうやらこの世界でホワイト・ナイトに期待をするのは間違っているようだ。

「もはやこれまで」と口に出してしまう。言葉には言霊というものが宿っており、決してそんなことを言うべきではないのは分かってはいるのだが、流石にどうして辛い状況だ。部屋を真っ暗にして、カーテンも締めきって、隣の家――五反田の家だ――の情報が一切入らないようにする。その可能性は消えたのだ。

 本命を、家に呼ぶ。両親も不在、というこの上ないシチュエーション。完全に「アガリ」を想定していたが、何かが欠けていたのだろうか。現状で出来る準備を十二分にした結果がこれだ。シチュエーションに贅を尽くすのはもう限界に近い。

 となると、考え方を根本から変える必要がある。


 そう、もはや残された選択肢は「大穴」しかない。そう考えた私を誰が否定できよう、いやできまい。全ての感情を消し、最短ルートで攻略することだけを考えるのだ。

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