第9話

梅雨も明け、清々しい初夏の日のある朝。いよいよHIGとの交渉の幕が切って落とされる。人生の掛かった大一番、自分の力を試す時が来た。ここに至るまでの道のりは、とても長かった気がする。人生感を覆される転機と出来事が、この短い間でた沢山起きた。何があっても怖くない、失敗も恐れない。結果がどうあっても、自分を信じて攻めるのだ。

「失うものが無い」人はこんなにも頼もしく感じるものなのか?捨て身の開き直りではない。緊張感はなく気持ちは落ち着き、充実感に満ち溢れている。極限状態でこれから背水の陣を迎える、人の心境とはこんな感じなのだろう。

俺が失ったものは自分にとって「大切である」と思い込んでいたもの、でも何一つ重要ではない事に気付かされた。つまらないプライド、驕り、慢心、欲望にしがみつき。人より秀でるために他人を騙し、裏切り、蹴落とす事が平気で出来る人間になろうと、疑う事をしないで本気で目指していた。

失うものが無いのではない。「失うべきもの」を一生懸命かき集め、その間違った努力を無駄にしたくなかった。捨て去るという行為に恐怖して、理由を付けて逃げ回っていた。「失うべきもの」をやっと捨て去る事が出来たから、本当に「守るべきもの」が見えてくる。

THC本社で行われた最初の交渉は思いのほか順調に進み、積極的なやり取りもあったが、予定の2時間であっさり終了した。残った課題は各々持ち帰り後日、アメリカ本土にあるHIG本社にて現地視察も兼ね、2回目の交渉を執り行う事となった。しかし今、回この場にハート氏の姿はなかった。本匠に呼び止められると、

「坂下君、ご苦労だったね。万事上手く行きそうだな」

「本匠社長、お疲れ様でした。先方の社長、お見えになりませんでしたね」

「大筋の内容は把握しているだろうから、調整は部下に任せているのだろう。本契約の時には会う事になるだろう」そう言うと足早にその場を離れていった。当人同士が顔を合わせていたなら本匠に突っ込んだ話も出来たのだが、今回はお預けとなった。

 「まだ間に合いそうだ」。あかりとの奇妙な公園デートの事だ。交渉の報告結果を伝える為に、息を切らしながら公園へ向かった。

「あ、湊~、お疲れ様。交渉どうだった?」、「うん、100点中90点ってとこかな」。「そっか。上手く行くといいね」彼女はそう言うと暫くうつむいていた。「あのね、住民票・・よく分からなかったからひと通り取ってきちゃった」続けて「あのね、何だかとても不安。私だけ同じ所をぐるぐる回って、取り残されている気がするの。でも湊はどんどん先に行ってしまう気がする・・おかしいよね」

俺の時間は止まらない、彼女と新しい話をすればするほどその差はどんどん広がってしまう。その矛盾というギャップはそのうち埋める事が出来なくなる、彼女はその矛盾に気付き始めている。全てを理解した時、彼女に何が起こるのだろう?やはりいなくなってしまうのか?それとも残存世界に残り続けるのか?

次の交渉までの準備を進めていた時、あかりの言葉を思い出した。「そうだ、住民票」遺品の中からどす黒く血で汚れてしまった封筒を見つけた。中身を見ると住民票以外にも婚姻届や戸籍謄本まで入っていた。本当に書類がひと通り入っている・・しかも婚姻届にはあかりの記名と捺印までされていた。気が早いな、あいつ・・。それを見ていたら急に胸を締め付けられた。他の書類は詳しく見る事なくそっと封筒へ戻した。自分の記名と捺印をした、もう出す事のない婚姻届と共に。

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