第5話

退院の日を迎えた。まだ万全とはいかないが担当医に頼み込み、リハビリを早々に切り上げて自宅に戻る事になった。HIGとの契約期日が迫っているのと引っ越し途中でそうせざるを得なかった。幸い契約の準備は整っていたが最終の確認作業が残っていた為、在宅で仕事をする事になった。

 まるで時間が止まっているようだ・・あかりと住むはずであった部屋、荷解き途中の段ボールを一人で片付けていると「実はドッキリでしたぁ~」なんて突然あかりが帰ってきそう気がしていた。日が落ち段々と暗くなる部屋、「時間は刻み続けているのだ」と主張してくる時計の秒針の音だけが、静まり返った部屋に響き渡る。「嘘であってほしい・・」そっと右側の頬に手を当て、視聴覚を失った事を確認すると否が応でも現実に引き戻された。

 翌日、本匠家へ出向いた。葬儀も通夜にも行けなかった、出来るだけ早く現実と向き合いたかった。新しい仏壇には屈託のない笑顔で写るあかりの遺影が飾られていた。手を合わせながら「ごめん、何もしてやれなかった」と何度も心の中で謝っていた、本匠に了解は得ていたものの、急な仕事で不在であったので家政婦が対応してくれた。「旦那様はお通夜のあとも時間がある時は仏壇の前からずっと離れないでお嬢様のお写真を見つめておられました、お体に障るからとお声を掛けても動こうとはしませんでした」男手一人で育てたたった一人の愛娘であり唯一の家族を一瞬で亡くしたのだ、しかも一緒にいた俺が助かった。この先怒りの矛先を向けられても甘んじて受け止めるつもりだ、それしか今の俺に出来る事はない。

最近よく幻聴が聞こえるようになった、やはり頭部を打ち付けたせいなのか耳元で時折囁かれる。入院中では雑音に交じって聞こえていた事もあり、一応担当医にも相談した。予想通り「頭部にダメージが残っている可能性がある」との回答に留まった。しかし日を追うごとにその囁きが聴覚を失ったはずの右耳からよりはっきりと聞こえるようになり、そして確信せざるを得ない出来事が起きた。何者かがはっきりと意思を持って訴え掛けていると。

 声が耳元で囁かれる前兆がある、当然右側の視界はほとんど無く聴覚もないが、時々すぐ横に人らしき気配を感じる。確認のため左目で振り向いてみるが誰もいない、本当に人が居た時もあるがそれとは違う空気の重さがある。通常の生活を送っていた時、過去に視界の隅で動く何かを感じ、そこへ視線を移すと何もない経験があった。通常ならば気のせいで済むが、欠損した右目の視界に動く何かが現れた時だけ、同時に空気の重さを感じる。欠損部分の情報を補完しようとする人体的現象なのか、それともオカルト的な何かか。

以前勤めていた法律事務所でよく一緒の案件に就いていた先輩に今回、資本提携の案件で助言して頂いたお礼で夕食に誘った時だった。「今回は本当に助かりました、ありがとうございます」

「おう、今日は一切遠慮せず飲み食いさせてもらうよ。覚悟しろよ」

「はは、どうぞ・・そういえば昨日、バス乗り場で事務員の佐々木のおばちゃんに声を掛けられましたよ。なんでも来週旦那さんとハワイ旅行行くとかで、ずっと話し掛けられてバス乗りそびれちゃいましたよ」「あぁ確かに来週だったかな、旅行。でもそれ人違いなんじゃないか?」「あぁえ~と、俺の右側こんなじゃないですか、だから正直はっきりとは見えてなかったんですが「湊ちゃん」って呼ぶの、佐々木のおばちゃんだけなんですよ」「そうか、でも佐々木さん先週に心臓発作で亡くなっているぞ」一瞬呪文でも掛けられたように全身が凍り付いた。俺は一体誰と話していたのだろう?あの時、右目に佐々木のおばちゃんの姿が見え隠れしていた事、会話中もずっと空気の重さを感じていた事に今更ながら気付いた。

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