第3話

やばいぞ、震えが止まらない。時間が経つに連れて事の大きさに気付き始めた。俺はなんて弱いのか、あぁ深い海の底で貝になりたい・・どこかで聞いたセリフが何度も頭の中で巡る、極度の緊張に耐えられない。もし交渉が決裂すれば俺の夢は木っ端微塵に消え失せる、間違いなく永遠に。ピンチはチャンス、その逆も然り。

まだ何も始まっていない。事も起きていないうちから自分の中のダークサイドが全身を徐々に蝕み包み込む、正常な思考も溶かしてゆく。その影響は仕事にも出始めて周りからも「とうとう壊れちゃったかな」と言われる始末。あかりまでもが「あなたは出来る子、何も心配しなくていいんだよぉ」と何かを諭すように声を掛けてくる、思わず「俺は子供か」とすかさず突っ込んだ。

しかし俺もただ震えている訳にも行かず、暇を見つけて情報収集と対策を練っていた。やはりというべきか、先方のHIG側は特に問題はなかったがTHC側で交渉に不利と思われる事案が見つかった。これを解消しない限り資本提携における交渉のテーブルにつく事は難しいだろう。幸い解決策が見出せそうで、詰めの作業は普段から「可愛がって下さる先輩」の方々にご教授頂こう。気になるのは販路拡大と資本増強といったHIG側にはメリットがあってもTHC側にはほとんど見当たらない、漠然とだが違和感しかない。相手側の規模を考えるとM&Aありきで話を進めた方が手っ取り早いと思うのだが、目的は一体何だろう?

 調査を進めるに連れて、少し面白い事も分かった。THCの前身は「㈱本匠インポート」とあり、輸入雑貨の卸業を父親が経営していた。昔、実家の近くにあったあの店「本匠グロセリーストア」は母親の店だった。しかし、両社とも持ちつ持たれつの状態ではあったようだが、多額の借金をする必要もなく返済も滞っていなかった。更に「本匠インポート」には現HIGのCEOであるハート氏の名前が役員として登録してあった。

 本匠とハートは顔見知りであり、しかも本匠はハートの元上司で知らないはずがない。経済苦で離婚?清算しきれない程の借金も抱えてもいない。離婚の原因はともかく、俺は本匠とハートの素性について触れる話を何度かしているが、過去に関係があった話など一切聞いていない。情報を共有すべき大事なこの時期に、この事を伏せる必要があるのだろうか?過去に不都合な事があり意図的に伏せている?単に過去の事は影響しないと判断しているのか?知った所で交渉に影響が出る事も考えづらい、少し気に掛かるが何れ分かる事だろう。

 「来月末で辞めさせて頂きます、お世話になりました」

本匠からの依頼から早1か月が経ち二足の草鞋を履きこなせなくなった。とうとうこの日がやってきたのだ。少々見切り発車気味だが交渉の期日までの準備期間は本匠の恩情で給料が出る事となった。しかし、まだ顧問弁護士の任命も個人事務所の件も棚上げ状態、毎日胃が痛い思いを強いられている。このタイミングであかりとの同棲を決意、流れで会社にも婚約の報告をしたのだが・・「逆玉か」「あかりちゃん騙されちゃった?」「死ね、坂下」と、祝福とは程遠い心温まる祝辞を頂き、俺は如何に好奇な目で見られていたかを再確認しただけだった。百歩譲って愛情の裏返しと受け止めているが、別に報告することもなかったなと、他人事のように考えていた。一つだけ良い事があるとすれば、この会社に一切の未練を残さず退社できる事だろう。

「湊~、新しい部屋いつ見に行くの?」

「出来るだけ早い方が良いな、契約の期日が近づくと動けなくなる。そうだ、引っ越し終わったら住民票取ってきてよ」

「え~、面倒くさい、湊やってよ。それよりさぁ、婚約指輪っていつくれるの?給料の3ヶ月分だってさ~、一体いくらになるのかなぁ?ねぇ、ちょっと聞いてる?」

「経理担当が何を言っているのだか・・」と心で呟いた。この不安と重圧からいつ解放されるのだろうか・・神のみぞ知る。

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