明智光秀の謀反で、それが崩れた。


───


「瀬田橋が焼け落ち、安土へは進めませぬ! 」


 一つ狂えば、また狂う。

 小さな綻びが、やがて全体を蝕む。

 戦場では予期せぬ出来事により勝敗が覆る事は珍しくない。


 それ自体、人の手に因る場合もある。

 些細な計算違いが積み重なり、望む道から徐々に外れていく。


 何故、そうしなかったのか。

 何故、そうしてしまったのか。


 所詮、予期せぬ事態に対する対応力に優れた者が勝利を手にするのだろうか。


「何者かの仕業か! 」


「勢多城主、山岡美作守と思われまする」


 明智光秀は眉間に皺寄せ歯噛みした。


 感情の起伏が激しい質では無い為、戦場以外で大声を上げる事は少ないが、死ぬ程の負けず嫌いで完璧主義の彼は、またもや己の計画が狂った事に憤慨した。


 山岡景隆は、安土から都に向かう途中の琵琶湖から流れる瀬田川に掛かる橋の守り主と言える人物である。

 川を見下ろす勢多城は、その橋を守る為に建てられた。


 信長父子が上洛の折りには、度々勢多城に宿泊したものだ。

 宿泊所とするぐらいだから余程の信頼と忠義があったのだろう。


 安土への侵攻を食い止める為、瀬田橋を焼き払い光秀への抵抗を示したのだ。


「橋の修復に取り掛かれ!やむを得ぬ。坂本城に入る」


 光秀は道を引き返し、近江の坂本城に入った。

 結果、三日間足止めを食う事になる。


 信長父子の首級を手に入れられなかった事が先ず第一。

 瀬田橋を落とされ思わぬ時間を要した事。


 そうして算段が狂い時が過ぎて行く内に謀反の報せは方々に広まり、織田家の諸将達が動き始めた。


 その動きは光秀が期待していたものとは些か異なっていた。

 山岡景隆の信長に対する忠義は承知していたが、たかが小身、力に屈すると甘く見ていたのだ。


 千載一遇の好機を逃さず行動に移し、信長だけではなく信忠まで討ち果たした手際は見事であったが、その後こうなるであろうという予見は少々甘かったようだ。


───


 二日の夕刻頃、予想通り筒井順慶の元に光秀より書状が届いた。


 少しは情報が集まってきてはいるが、度々評議を行えど妙案は出ていない。


 強いていうなら大事変に対して去就を図りかねていると思わせる事こそが、最大の策であった。


 謀反は本日。

 直ぐに返答せずとも、光秀は順慶を必ず口説き落とせると待つに違いない。


 とはいえ、明日になっても何の動きも示さないというのは流石に不味い。


「取り敢えず兵を出す」


 順慶は決断を口にした。


「もし上様、中将様が御無事でおられたら? 」


 結局はそれに尽きる。


 故に順慶の選んだ策は、明智に味方するとも中立とも取れる形で兵を出すというものであった。


 畿内は混乱を極め、安土にいた信長の妻妾等は留守居役の蒲生賢秀に伴われ避難し、他の家臣達の家族も邸を焼いて身を潜めている。


 そのような状況の中、自衛や様子見の為に兵を進めるのは不自然な事では無い。

 明智には味方する為に兵を出したと見せ掛ける事も出来る。


 こうした曖昧な態度に依り『日和見順慶』の汚名を残す事になってしまうのは全く皮肉である。

 だが、これは悩みに悩んで出した賢明な策と言えただろう。


───


 夜更けて、一体何刻になるのか。

 順慶は物思いに沈んでいた。


 取り敢えず絞り出した策は時間稼ぎでしかない。

 明智に味方するにせよ、すんなり天下が明智の手に転がり込むとは考え難い。


 多くの血が再び流れるは必定。

 信長の天下統一は後一歩の所で阻まれた。


 順慶は仏道に帰依する者として、本音では戦を望んでいない。


 憂鬱な面持ちで溜息を吐いた。


 すっ──


 微かな衣擦れの音に素早く目を遣れば、其処に待ち望んでいた者の姿があった。


「月──!戻ったか! 」


 静か過ぎて唐突な登場は、順慶の常に咎める所であるが、月読丸は一向に改めようとはしない。

 但し今は咎められない。


 男として、只愛する者の帰還に喜びで胸が満たされ、熱く彼を抱擁した。


 髪に顔を埋め、月読丸から発せられる全ての匂いを鼻腔一杯に吸い込む。

 花のような芳しい香り、汗の匂い、順慶にしか知り得ぬ柔肌の匂い、そこに煙の匂いが微かに混じっていた。


 その全ての匂いが愛しく、彼の髪を掻き分け益々没頭した。


「殿……都では……」


 月読丸が順慶の情熱を嗜めるように耳元で囁いた。


「うむ……そなたが無事で良かった。何よりも、そなたが無事で……」


 順慶の関心は、都の情勢を語ろうとする月読丸の言葉ではなく、あくまでも月読丸本人に向けられた儘だ。


 敢えて今は現実から目を背けていたい心境故でもあった。


「身体を清めてやろう。湯浴みをさせてやりたいが我慢致せ」


 湯を用意させると、布を浸して月読丸の身体を嬉々として拭い始めた。




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