第三話 大江山

 鬱蒼とした山。木漏れ日が差し込む隙間もないほど生い茂った木々。川は、幻想的な空気を醸し出す、底が見えないほど深い、神秘的な青に、吸い込まれそうな緑の輝きを放っている。

そして、その奥の奥には、弾けるような、しかし、それでいてしっとりとした落ち着きを持った春色の桜の巨木が立っている。この花は一年中狂い咲いており、鬼の、妖の住む場所への入り口の守り木だ。

そう。ここが、かの大江山。

珠華は、その美しい景色に見惚れていた。

だが、その度に後ろで巧みに馬を操る羅玄の存在を思い出し、俯いて赤面する。

そうこうしているうちに、馬は桜の下を通り過ぎ、しばらく川のほとりを走る。

だが、そのころにはもう、追手の「お」の字もないような状況だったため、どちらかというと走るというより歩くに近い速さではあったが。

そして、滝の裏に回り込み、その裏側の穴を抜けると。

沢山の鬼たちに、出迎えられた。

「ようこそ、桔梗さま。そして、我らが棟梁を連れて来てくださった羅玄さまにも、心から感謝いたします。私が、前茨木童子、莉炎りえんにございます。」

代表と思しき風格を持つ鬼が、口上を述べる。

しかし、どこか引っかかる。

茨木童子は、酒吞童子の右腕であり、酒吞童子が酒吞童子でなくなれば、茨木童子もその役目を降りる。逆もまたしかり。茨木童子が死んだり、表立っての活躍が困難になれば、酒吞童子も、跡継ぎにその役目を渡して隠居する。

正しく、一心同体。

そして、まだ身体的にも、能力としても少しも衰えていなさそうなこの鬼が、茨木童子という役目を辞しているということは。

――まさか。

「酒吞童子は、亡くなられたの、ですか?」

声が震える。自分がいきなり当主になるなど、そんな。

「…その、通りでございます。妖がらみの問題が都で発生し、それを鎮めに出たところを、陰陽師に――」

「また、安倍晴明か?」

声に怒気が見え隠れするのが、自分で感じられる。

一旦落ち着き、濡羽色に戻ったはずの髪色が、また赤く染まり始めた。

周りの鬼たちの顔色が目に見えて青ざめる。自分でも、制御しがたい、この怒り。

その時。

「落ち着け。」

低く、静かな声。その言葉とともに、ギュッと抱きしめられる。

――羅玄の、声だ。

ぼんやりとそんなことを感じたが、それを境に体から程よく力が抜けていく。

気が付けば、珠華は落ち着きを取り戻していた。髪も、元の濡羽色に戻っている。

ただ、頬だけが、うっすらと朱に染まっていた。

「手間をかけたな。」

珠華は、つぶやくように言葉を紡ぎ、彼の腕から抜け出す。

そして、

「話の腰を折って悪かった。続けてくれ。」

と、莉炎に言葉をかけた。

「はい。桔梗さまのおっしゃる通り、前当主、隆夜たかよさまは、安倍晴明の手によって死んでしまわれました。」

怒りが沸々とこみあげてきたが、何故か、嚥下できるようになっていた。

「その時は、我らも落胆いたしました。当主は死に、次期当主は手の届かない場所に閉じ込められている…ですから、羅玄さまが、桔梗さまを迎えに行くとのお申し出があった時は、本当に驚きました。」

!?

思わず振り返ると、羅玄はいたずらっぽく笑う。

同じように笑う莉炎は、なおもこう続けた。

「羅玄さまからのお申し出を受けるかは貴女さま次第ですが、我らとしては、忠誠を誓っているお二人を応援したいと思うておりますよ。桔梗さま。貴女さまこそ我らが当主、酒吞童子でございます。」

その一言で、場の空気が一気に緩む。

しかし、次の瞬間、珠華が一歩前に出たことで、場は静まり返る。

「皆の者。妾は長年閉じ込められ、鬼としても覚醒したばかりの未熟者じゃ。先程のように、力を暴走させかけてしまうこともあろう。だが、妾は鬼のため、妖のために尽力し、この身をささげることを誓おう。」

鬼たちから、わっと歓声が上がる。だが、莉炎の言葉をさり気なく流したことには気付いていないようだ。

内心安堵しながら、珠華は、さらに続ける。

「そして、妾はこれをもって、桔梗という人間に付けられた名を捨てよう。妾はもう、桔梗ではない。…そうじゃの。曼珠沙華まんじゅしゃげ。彼岸の毒を持つ花。これから二文字を取ろうかの。…そう。妾は、珠華じゅか。鬼姫、珠華じゃ。」

どこからともなく、拍手が巻き起こる。

この瞬間に。鬼姫にして酒吞童子、珠華は誕生したのだ。

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