第5話 文武両道

 7月が終わりを迎え8月が到来し、体力作りを始めて一週間程が経過した。

 クラスメイトからの人気を得るため運動能力向上に向けて始めた走り込みは、毎日サボらず朝と昼の2回に分けて同じコースを走っている。

 本当は朝昼夜の1日3回で走り込みをしたかったのだが、小学一年生が夜中に出歩くというのは世間的にも治安的にもよくないため自粛した。


やはり小学一年生の体だと行動が制限されて不便だ。と思ってはいる節はあるものの、利点もあったりする。

 なんと便利なことにこの体、筋肉痛にならないのである!

 大人とは筋肉の作りや体のつくりが違うからとかいろいろ生物学的な理由があるらしいのだが、詳しくはわからない。

 28歳の俺が毎日こんなことをしていたら、必ず体の何処かかしらは筋肉痛になり、最悪疲労骨折になっていたかもしれない。

 大人の俺も運動不足だったからな。

何はともあれ便利な体のおかげで俺は毎日走り込み可能なのである。

 

それに成長速度も速い。

見る見るうちに走る速度も走れる距離も向上している。

子供は呑み込みが早いと言うが、子供時代にそれを実感できる者はいない。

なんせ子供はその時期の成長速度しか知らないからだ。


しかし俺は違う。

一度大人を体験した俺は、いかに自分の体の成長速度が良いかを実感できている。

それのおかげもあって俺は頑張れるのだ。


実は人生2度目という人はいないだろうけど、ゲームをやっている人はごまんといるだろう。

その人たちなら今の俺の気持ちがわかるはず。

——ゲームで例えるなら、今の俺の時期は経験値取得5倍キャンペーンと同じようなものだ。

ゲームをやる人ならほぼ確実にそういう期間でレベル上げに勤しむはず。

普段のクエスト周回では一度のクエストクリアで100の経験値しか得られなくても、この期間にやれば一度で500の経験値が得られる。

そうなれば当然キャンペーン期間中にゲームをやりこみ、今後の攻略を楽に進めるために頑張るはずだ。

その頑張ることと俺が今走り込みを頑張っていることこそがイコールの関係なのだ。

「今頑張っとけば後が楽」と自覚できているが故に頑張れるのである。

一般の小学生と俺の違いはそこ。つまり経験値取得率が5倍であることに気づけているかどうかの違いなのだ。

自分がいかに恵まれた状態にいるか自覚すること。

これがどれほど大事だったことか1度目の人生の俺は知る由もなかったのだろう。


我ながら本当に勿体ないことをした。

今だからこそそう感じられる。


筋肉痛というインターバルを必要としない体に、大人の時とは段違いの成長速度。子供の体とはこんなにも恵まれていたとはな。

フフフ、本当に良い体を手に入れた。

思わず強い人間の体を乗っ取ることに成功した悪役のように高笑いをしてしまいそうになる。

それ程に効率的な体。まさに成長することに特化した体だ。


——でもだからこそ勿体ないとも思ってしまう。


俺が今していることと言えば、朝昼の走り込み程度。

精々一時間の運動ほどだ。

他の時間はテレビを見てだらだらしたり、夏休みの宿題に取り組むくらい。

筋トレをするのもいいのだが、子供の頃に筋トレをし過ぎると成長の妨げにもなるし今は体力作りのみに注力したい。

しかしいくら筋肉痛にならないとはいえ体力が無限にあるわけではないため、ずっと動いていられるわけではない。

それに夏場の熱い時期であるため炎天下の中で体を動かし続けるのも危険である。

熱中症で倒れて2度目の人生早死になんて御免だ。


なら家ですることを考えるか。

真っ先に思いつくのは勉強。

でも小学一年生の分野の勉強なんてする必要はない。

いくら中学高校で赤点まみれだった俺でも小学生の勉強くらいなら身についている。

それに夏休みの宿題に関してはもう終わっている。

実は夏休みの宿題は2日前に終わらせているのだ。

ひらがなの書き取りや足し算引き算など28歳の俺にかかれば造作もない。

故に勉強する必要は——。


いや待てよ。

別に小学生だからと言って小学生の勉強以外をしてはいけないという決まりなどない。

そうだっ、小学生の勉強をする必要がないなら小学生の勉強以外の勉強をすればいいじゃないか。

ならば高校、いや中学の分野から始めるとしよう。


だがやるにしても問題がある。

教材がない。

まだこの時代ではネットで教材を無料で見つけられるほど便利な世の中ではない。

それに小学一年生の俺と小学三年生の姉貴がいるこの家庭に中学生の教材があるはずもない。

ならポケットマネーから買おうと貯金箱を見てみるも、300円しか入っていなかった。

これでは中学のテキストどころかマンガ一冊すら変えない。


「…………こうなれば〝あの手〟を使うしかないか」

 正直この手を使うのはあまりしたくなかったのだが、背に腹は代えられない。

 2度目の人生、どんな手を使ってでも堅実に生きて見せると決めたのだ。

 例え自分を曲げてでも、俺はやり遂げなければいけない。

 そのためなら、俺はいくらでも汚れてやろう……。




「お母さまッ!! どうかこの憐れなわたくし目にお小遣いを御恵みいただけないでしょかッ!!!」


 土下座。清々しい程に綺麗な土下座。

 人生初の土下座をまさか小学一年生で体験することになるとはな。

 だが俺は誇りも自尊心もプライドも全て1度目の人生で置いてきた男! 今更土下座の1つや2つで傷つくほど軟弱者ではない!


 小学一年生の長男坊がこれだけのことをしているのだ。

 きっと母さんだってわかってくれるはず……!

 ——しかし、現実とは、いや母親とは非情なものだ。


「ダメよ」

 きっぱりと断られた。

 土下座する愛息子の姿を、昼飯を調理する手を止めず、横目にすら見ず、拒否した。

 まさに取り付く島もないという感じだ。

 しかしこんなところで諦めきれるはずがないッ!


「そこを何とか!」

「ダメ」

「肩揉みます!」

「ダメ」

「食器洗いします!」

「ダメ」

「馬車馬のように働きます!!」

「ダメなものはダメ」


 ぐぅッ!? なんて強情なんだ……!?

 こうなれば足を舐めるしかないか! いや、もしくは土下寝かッ!

(土下寝……土下座よりも上位の謝罪。詳しくは「バ●」参照)

 

「どうせまた変身ベルトが欲しいとかいうんでしょ? ああいうのは誕生日意外には買ってあげないからね」

「違うよ! 俺はテキストが欲しいだけなんだ!」

 地面に擦り付けた額を上げて、母さんの誤解を解く。

 まあ子供がお小遣いをねだれば、おもちゃが欲しいと思うのは当然だ。

 実際俺も今日この日まで母親に勉強のテキストをねだったことなどない。


「テキスト?」

 ピクリと母さんの眉が動く。

 訝し気な目でだが、こちらを見てくれた。

「あんた、どうしてまたそんなもの欲しいわけ? 今まで勉強を率先してやったことすら一度もないじゃない」

 母さんの言う通りこの頃から既に俺は勉強に意欲的ではなかった。

 そんな俺が唐突にテキストを欲しいなんて言い出したら不審がるのは当然だ。

 

 この手をあまり使いたくなかったのは、プライドをかなぐり捨てなければいけないという理由以外に、鈍い母さんにも不審に思われてしまうかもしれないというリスクがあるからだ。

 あまり不審がられるような行為をするのは俺としては避けたい。

 

「そんなこと言って、もらったお小遣いでこっそりおもちゃとか買う気なんじゃない?」

 母さんはコンロの火を止めて正座する俺を見下ろしながら言及する。

「そんなことしないよ! こんな可愛くて純粋な俺がそんなことするわけないじゃないか!!」

「あんた自分への評価高過ぎじゃない?」

 なかなかに手厳しいツッコミを入れられた。

 確かに自分でも過大評価が過ぎると思っている。


「とにかく、俺は絶対にそんなことはしない! 神に誓える! なんならもしおもちゃを買ってきたら切腹してもいい!!」

 というかこの歳になっておもちゃなんて欲しくない。

 28歳にもなって子供向け玩具を欲するほど俺はマニアじゃない。


「…………」

 母さんは10秒ほどの沈黙の後、ゆっくりとその場を離れた。

 すると数秒後にこの場に帰ってきたとき、母さんの手には1,000円札が2枚握られていた。


「買ったものはちゃんとお母さんに教えること。それと証明用のレシートをもらってくるのと、お釣りはちゃんとお母さんに返すこと。これが守れるっていうなら買ってきてもいいわよ」

 条件とともに母さんは2,000円を差し出した。

「っ!」

 

 勝利を勝ち取った瞬間だった。

 よしっ! これで勉強を進めることができる!

 反射的にガッツポーズをしそうになったが、今は流石に控えておいた。


「もちろんだよ、母さん!」

 貴重な2,000円を両手で丁寧に受け取り、俺はすぐさま最寄りの本屋へと走った。




 そして俺は本屋にて中学生用の国数理英社の五教科が濃縮されながらも1,500円という良心的な値段のテキストを購入した。

 帰ってからちゃんと母さんに買った教材を見せ、レシートを渡し、お釣りの500円も返金した。

 テキストを見せた時母さんに「あんた中学生用のやつ買ってるじゃない!」と間違いを指摘されるが、俺にとっては狙い通りの商品だったと伝えると半信半疑ながらも理解してくれた。

 俺は嬉々としてテキストを部屋に持ち帰り、早速勉強に取り掛かった。

 

このとき俺は母さんの俺に対する疑いはすっかり晴れているものだと思っていた。

 確かにおもちゃを買うという疑いは晴れた。

 

だがしかし、母さんの内には新たな疑念が宿っていたのだ。


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