第四章 涙

 白い天井が見える。

 薬みたいな匂いが漂っているな。

 家じゃない。ここはどこだろう。

 今何時だろう。

 右手首が微かに痛い。

 

「茉莉!!」

 

「あれ……お母さん?」

 

 茉莉は病院のベッドに寝かされていた。気が付いた娘に、母親である紗羽は目を真っ赤にして怒鳴る。

 

「あんたって子は! 心配ばかりかけて! この親不孝者!!」

 

「まあまあ、意識が戻って良かったじゃないか。先生を呼んで来るよ」

 

 父親の健吾が紗羽を宥めた。父の隣りにいる弟の俊也が少し安心した顔をしている。

 

 母親の説明によると、吸血鬼に襲われたあの夜、茉莉は病院に運ばれたそうで直ぐに家に連絡がつき、家族が顔色を変えて駆けつけたとのことだった。血だらけの割に外傷はかすり傷程度だったが、念の為精密検査をして、その結果問題なければ退院可能だと医師から説明があったらしい。まさか自分の娘が吸血鬼事件に巻き込まれるとは思わず、両親は気が気でなかったそうだ。

 

 (一体誰が自分を病院に連れて行ってくれたのだろうか? )


 自分はあれから気を失っていたようで、全く記憶がない。当時その場に居合わせた病院関係者によると、その人物は意識のない茉莉をストレッチャーに乗せ、処置室に運ばれたのを見届けた後にすぐ姿を消したらしく、あまり特長を覚えてないとのことだった。

 

「姉ちゃんはきっとついていたんだと思う。あの吸血鬼事件の犯人と対峙していて死なずにすんだなんて、今までの話しでは聞いたことなかったから……」

 

 いつも憎まれ口を叩く弟が、どこかぎこちない。彼なりに茉莉のことを心配してくれているようだ。

 

  ※※※ 

 

 検査の結果、特に問題ないとのことで茉莉は退院し、それからは自室に閉じこもっていた。入院中に警察から事情聴取が行われたが、実際に見たこと遭ったことを話すだけで、意外と直ぐに終わった。


 吸血殺人事件の被害が学内の生徒にまで及んだ為、学校側がその対応に追われていると、優美が昨日LINEで知らせてくれた。二・三週間夕方の部活動は禁止で、綾南高校全生徒ホームルーム修了後は直ぐに帰宅するようにとのことだった。木曜日に起きた事件で死亡者は二人。うち一人が綾南高校三年生の白木結弦。土曜日の夜に通夜が行われ、日曜日に葬儀が執り行われるらしい。気になるだろうから日時は知らせたが茉莉自身も事件の被害者である為、無理しないように、なるべく早く顔を見せに来ると彼女のLINEは言ってくれている。無理せずゆっくり休んで週明けには出て来られるようにと担任の真木からは連絡が入った。

 

 やはり、これは現実。

 夢じゃない。

 どんなに会いたくても、白木にはもう会えない。

 胸にナイフが何本も突き立てられた気がする。

 茉莉はベッドの中でくまのぬいぐるみをぎゅっと抱き締めた。

 つい頭の中で蘇る風景。

 

 血だらけの海に倒れる白木。

 その場で動けなくなる茉莉。

 地面に押さえつけられる身体。

 首に食い込もうとする牙のような犬歯。

 

 目の前がみるみる霞んでゆく。

 茉莉の身体は怪我そのものは大したことない筈なのに、酷く重だるく感じた。

 

 ――先輩……!!

 

 そこへ、ドアのインターホンが響いてきた。

 

 (……誰だろう……? )

 

 スリッパの音がした。下から紗羽の声が響いてくる。 

 

「茉莉。お友達がお見舞いに来てくれたわよ。上がってもらっていい?」

 

「……」

 

「駄目じゃないなら、良いととるわよ。良いわね?」 

 

 下から来客を案内する母の声が聞こえる。

 

 (えっと……今日は何日だっけ? そう言えば優美が来てくれるってLINEで言ってたな)

 

 茉莉はベッドの上で気怠そうに身体を起こし、スマホのカレンダーをチェックした。今日は土曜日。

 

 (ああ、学校は休みだったっけ。室内着はそのまま外出しても問題ないやつだから良いや。LINEも優美からの以外は未読スルーしちゃってるな。後でチェックしよう)

  

「茉莉……!」

 

 ノックもそこそこに優美は部屋に飛び込んで来るなり茉莉をひしと抱き締めた。抜け殻のようになっている部屋の主はされるがままだ。手元から落ちたスマホがベッドの布団の上で跳ねた。

 

「良かった……! あんたに何かあったらあたしどうしようかと思った! まさかあの日に事件の犯人が身近に来ているとは思わないから……」

 

 いつも勝ち気な優美の声が震えている。

 親友の温もりを身体中で感じながら、茉莉は上の空になっている瞳を瞬かせると、ドアの外にもう一人の客人が居るのに気が付いた。

 

「大丈夫ですか? 門宮さん」

 

 屋内なので普段ほどではないが、黒縁眼鏡の奥で深みのある青色の瞳が心配そうな色をしている。まるで万華鏡のように、多彩な美しい青色の瞳だ。

 

「……神宮寺君もどうぞ、入って。あんまり片付いてない部屋で、悪いけど」

 

 茉莉は何とか言葉を絞り出す。

 

「ありがとうございます」

 

 静藍も部屋の中に入って来た。

 座布団代わりのクッションは丁度二つ机の傍に置いてある為、そこに座ってもらうことにする。

 

「茉莉。茉莉。あんたが事件に巻き込まれた話しを聞いてあたし、身体中の血が一気に抜けた気がしたよ。あんたが無事でどんなに安心したことか……! 神宮寺君も凄く心配してくれて、誘ったら来ると言ってくれたから一緒に連れて来たんだよ」

 

 優美は抱擁の腕を解く気はまだなさそうだ。私も逆の立場ならきっと同じことをしているだろう。

 

「……ねぇ優美」

 

「……何?」

 

「白木先輩、砂時計になっちゃった。二度とひっくり返されることのない砂時計に……」

 

「……」

 

「私達、まだ何にも始まってすらなかったのに。ほんの少ししかない思い出はどんどんこぼれていって、すぐに何もなくなってしまうんだよ。きっと。これからどんどん楽しい思い出を作りたかったのに、何一つ作れずただこぼれ落ちてゆくだけになってしまうだなんて、あんまりだよねぇ……!!」

 

 我知らず涙が溢れてきた。

 どんなに泣いても泉のようにどんどん湧き上がってくる。

 細かいことはどうでも良くなった。

 涙が出るなら枯れてしまうまで流れ出してしまえば良い。

 

「私、何にも出来なかった。先輩は自分を犠牲にして最期まで私を助けてくれたのに……」

 

 優美は右手で茉莉の頭を幼子をあやすように撫でた後、身体を離した。彼女の目も潤んでいる。頬も真っ赤だ。

 

「茉莉! 茉莉!! あんたがその砂時計にならなくて良かった! あたしはそう思っている。本気だよ!?」

 

「うん……うん……分かってる。頭じゃ分かってるけど、心が追い付いて来れてないみたい」

 

「やっぱり来て良かった。あんた想像した通りの状態なんだもの。今の内じゃんじゃん泣いちゃいなさい!」

 

 二人の少女は互いに落ち着くまで泣くことにした。

 静藍は彼女達を静かに見守っていた。

 時計の針はゆっくりと時を刻んでゆく。

 

  ※※※ 

 

 少し落ち着いたところでノックの音がした。ドアの外にはカップ三つと三人分の茶菓子が乗ったお盆を持った紗羽が居た。

 

「遅くなってごめんなさい。丁度お茶をきらしてたから買いに行ってたの。ここに置いとくわね。皆さん今日は茉莉の為にどうもありがとう。ゆっくりしていってね」

 

 紗羽は机の上にカップと茶菓子の皿を乗せると部屋を出て行った。階段を降りて行く音を耳で聴いていた静藍が一呼吸おいて、ゆっくりと口を開いた。

 

「門宮さん。実は君に話さないといけないことがあります。僕が城殿さんと一緒にここに来た理由の一つはそれです。でも、今日は無理そうだから、そのことはまた今度にしようかと思います」

 

 普段の彼とはちょっと雰囲気が違うのに戸惑う。

 茉莉は真っ赤にした目を瞬かせると首を傾げた。

 

「……どうして? 少し気分が楽になったからもう大丈夫だよ。優美も居るし」

 

「……本当に良いんですか?」

 

「ひょっとしてあたしが居たらまずい?」

 

「いえ、気丈な城殿さんなら多分大丈夫です。僕は今の門宮さんの心が心配だから……」

 

「茉莉なら今は大丈夫だと思うけど。あたしも話しが気になる。神宮寺君さえ良ければ話して」

 

「……分かりました」

 

 何かを決意する表情をした静藍はシャツに手を掛けて左に引っ張り、左首筋を見えるようにした。それを目にした茉莉は絶句する。

 

 薔薇の形をした痣がそこにはあった。小指の爪位のサイズだ。

 

「……え……嘘……」

 

 茉莉の頭の中で、銀髪を持ちルビー色の瞳をしたぶっきらぼうな物言いの少年がちらつく。

 彼女を助けた彼も全く同じ場所に痣を持っていた。

 と言うことは……。

 

「茉莉どうしたの? ただの痣じゃない。ちょっと変わった形をしているけど」

 

 意味が分かっていない優美はぽかんとしている。石のように固まってしまっている親友の身体を揺さぶった。

 

「門宮さんはもうお分かりですね。あの日、門宮さんが吸血鬼に襲われた時に居合わせた“ルフス”。それはもう一人の僕です」

 

 静藍はゆっくりと話し始めた。

 机の上にある手付かずのカップから白い湯気が上へ上へと立ち昇ってゆく。

 アールグレイの香りが部屋中を包み込んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る