第9話 灯の見えぬ者たち。


ふっと、目を開ける。

…眠っていた。

この世界に来てからその大半を歩き続けていた上に、たまにある仮眠は冷たく湿ったコンクリートの上だったので、疲労がたまっていたのだろうか。


目を擦りながら身体を起こし、先ほどまで寝ていた座席に座る。

変わらぬ雨音の鉄板を鳴らす音が、電車特有の鈍く低い音と合わさり頭に響く。

最早ぼさぼさな髪など直そうとも思わない…


「さて…と…これからどうしようかな…」


両手で乾かしておいた服を触り、乾いているか確認しながらそう呟く。

鉄道と言う、恐らく移動手段になるものはここにある。

食料は探索中に放置されていた保存食、水は浄水器で今の所何とかなっている。


今すぐに命を失うような危機的問題は存在していない。

しいて言うならば、この先の情報は殆ど無い事だろうか。つまり、この鉄道が私を生かす物か殺す物かも不明だ。

冷たい窓に触れながら、遠くを眺める。

遠くと言っても、どこをくっきり写そうとも灰色な世界でなにも変わったことは無いのだが。


探索途中で見たあの風景と何も大きく変わるものではないね。



「ま、やるだけやってみようかな」


操作方法など分からない出力制御ハンドルと、見方も分からない計器が並ぶ運転席の入り口に手をかけてそう呟く。

『やるだけやってみる』。やらないよりもやって後悔した方が最期は良いだろうという何とも不確定な自信を元にしたものだ。


ひんやりとした、金属塗装の黒い光沢が光るハンドルの隣には、目盛りのような鉄板が打ち付けられていた。

黒色の金属の板に、金色とも黄土色とも認識できるくすんだ横棒が一定間隔で引かれている。

棒の左にはアルファベットと数字が刻まれている。現在のハンドルが位置するのは『N』のメモリだった。

Nから向かって奥には『B-1』、『B-2』、『B-3 』…と言う風に6までのBの目盛り、向かって手前側には『P-1』、『P-2 』…と4までのPの目盛りがある。

この手の乗り物に興味を持つことは無かったが、『N』は恐らくニュートラルの事だろうと予想すらつかなかったらこのハンドルには触れもしなかっただろう。


「とすると…ブレーキと、パワー?」


久しぶりにしっかり寝た私は冴えていた。

『B』はバーストでは?などと心の中で頓珍漢な解を出したことを除いて。

電車がバーストしたら私はいよいよこの世界が信じられなくなるところだ。

元より信頼に足る世界か、と言われるとそれは何も言えない訳だけど…


逆に言えば、それ以外のインジケータはよく分からない。

ぶら下がった無線機のようなものは…この世界でどこに繋がるというのだろうか。

若干恐ろしく感じたので、触れないことにした。

これで誰かが応答したとて正気を保てる気がしないのだ。


黒いハンドルは目盛りの通り、手前から奥へ、奥から手前へとスライドできるようにできているようだった。

試しに手で握ってみるが、簡単に動かせるように軽いわけでは無いようだ。


「…結構固い?しっかり引かないといけないっ?!」


試しにブレーキ側にでも押し込んでみよう、とレバーに力を掛けたがなかなか動かなかった。

…だが、には軽いはずみで入るようだ。うっかり弾いて入れてしまったのは言うまでもない。


特になにか覚悟をしたわけでもなく、うっかりミスで電車は動き出した。

唐突な出力の上昇でモーターは甲高い音を響かせながら急加速し、車内には後ろ向きの強い力が働き、運転室では思いっきり後ろに転倒する私がいる。

満員電車に乗っているだけなら、周囲の人たちがクッションになってここまで思い切った転倒などしなかっただろう。ただ、大きく圧縮されていたのは間違いないわけだが。


「ったぁ…!ちょ、待って待って速くない?!いや、ハンドル!!」


急いで体制を立て直し、黒いハンドルを前に押し込む。

若干痛む背中を労いながら、その勢いは落ち着いたことを確認して一息をつく。


強引に『N』に入った時はまさか次は前に吹っ飛ぶのかと瞬間的に覚悟したものだが、鉄道と言うものは案外速度が落ちにくいらしく、一度走らせ始めてしまえば出力を一時的に切っても問題ないらしい。

自動車のエンジンブレーキのようなものだろうか。いやあれは相当に強力なので、むしろ逆の特性に近いだろうか。


黒いハンドルから手を放さず、慎重に速度を調節しながらそのように思案する。

窓の外に流れる景色は灰色一色の印刷のようだった。

角が僅かに削れている、寂れたコンクリートの廃墟が鉄路の淵に迫るように並び、周囲をそんなものに囲まれているのだから遠くまでは見渡せない。




時折割れずに残るビルの硝子が電車の明かりを反射する色、それがアクセントとしてある程度の変わらぬ景色に、左に緩やかなカーブを続ける列車は走り続ける。

かなり駅間が長いのか、未だ駅のようなものは見えない。

流石にこの黒いハンドルをずっと押し引きしてるのは暇なので、手元に持ってきた鞄から、ノートを取り出しちらちらと眺めていた。


「駅より先に来てしまえば、そこまで新しい情報はこれから手に入らないかなぁ…」


あくまでこのノートは駅に行く過程までの周辺探索情報を先人が記録してくれたものだ。探索した場所はそれを参考にしたものであり、殆ど範囲に差は無い。

パラパラとノートを流し見しながら、のんびりとした安全速度で鉄道を走らせる。


規則的なカタカタという鉄路の継ぎ目を拾う音に、ふっと意識を向けた時だった。



「……ん?」


横を通っていく灰色の建物、その割れたガラスの奥。

弱い輪郭の黒色が視界の端に入りこむ。

全く予期せぬタイミングで現れた異常なそれに対して十分に目は追えていなかったものの、瞬間的な歪んだ像でさえ、それはしっかりと焼き付いた。

若干この世界に慣れ、恐怖と言うものが薄れていた意識を一気に持っていかれたような気がした。




「…ちょっとズレちゃった」


鉄道の運転士と言うものは凄いのだな、などと考えながら開け放たれた扉から車外に出る。

あの後すぐに駅が来たわけだが、どこかに意識を持っていかれていた私はあわててブレーキを掛けた。ホームから若干ズレた位置に車体が静止しているのはその影響だ。

ここまで乗ってきたが、駅の構造は大きく変わらない。

なにせ周囲の風景すら灰色一色なのだから、一周回って戻ってきたのではと考えてしまうほどだった。

折角乾かした服が濡れてしまわぬように、小走りにホーム屋根の下に駆け入り周囲を見渡す。


「……引っかかるなぁ…なんか…」


心に引っ掛かるのは、当然先ほど見た黒い『何か』である。

余りにもその不気味な容姿は…いや、ただの黒ずんだ淡い輪郭の像が僅かに視界に映った程度ではあったが、くすぶるろうそくのような恐怖を感じる姿だった。

それが私の気のせいだとするなら、まだ寝足りないとでもいうのだろうか。

この世界に慣れ過ぎた私が勝手に作り上げた幻想…?


しかし、その記憶が虚偽であるとは一切思えなかった。


…あれは余りにも経験外の恐怖だった。

一瞬で吸われるものとは違う、張り付いてくるようなイメージ。


「まさか…ね……取り敢えず駅の外を確認してみようかな。これで同じ駅だったら笑っちゃうよね」


明るく気取る。

一人で何を言っているのだろうかと思われるかもしれないが、こうでもしないと記憶の中に残るあの黒い『何か』が何者にでも見えてしまいそうだったのだ。

成り立ちも素性すらも、何もかもが未知のこの街であれば、人間のその想像力で幾らでも化け物を生み出すことは可能なのだから。


先程の駅と同じく、途中まで下りたところから階段は吹きっさらしになっていた。

ここも特に土地の上下は無く、コンクリート高架の上に鉄路はあるようだ。

…まるで本当に最初の駅となにも差がないように見えた。構造も、高架のコンクリートの綺麗さも。何もかも同じだ。

もしここだけを見ていたら、私はてっきり同じ駅に戻ってきたと思ったかもしれない。


ここだけであったら、の話だが。


「なに…これ…どういうこと…?」


街の方角が望めるその吹きさらしの階段の上で街の方角を見ながら、若干後ずさりして、心臓がきゅっと締められるような、張り付く恐怖を感じながらそこに立ち尽くした。


呼吸が浅くなる。



…あぁ、先ほどの記憶のままであれば少しは楽だっただかな。



眼下のその先、黒く、ゆがんだような。



距離感のつかめない黒い靄は、一つの全てを飲み込みそうな漆黒を頭頂部に付けて、道路の端で彷徨っていた。




あかりを探すように、ただ不気味に動いていた。

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