シャープペンシルの残像

火球アタレ

シャープペンシルの残像

 僕は半年ぶりに部室に向かっていた。

 まだ冷たい風が桜のつぼみを揺らしながら、窓の隙間に入り込んでくる。

 校舎の二階、その一番北側。そこに僕が所属していた美術部の部室――要するに美術室――がある。

 部室に向かっているのは卒業前、最後の挨拶をするためだ。

 今までお世話になった顧問の先生や後輩に別れの挨拶をしたいと思った。

 僕は毎日のように通った部室の扉を半年ぶりに開く。

 美術室には先客が一人。窓際に立って、ぼんやりと外を見つめていた。細く開いた窓から吹き込む風で前髪が微かに揺れている。

「……来てたんだ、赤城さん」

「久しぶりだね、瀬川君」

 彼女の名前は赤城彩香。僕と同じ三年生で、低い位置で一つにまとめた髪が特徴的な女子だった。今年の卒業生で美術部員は僕ら二人だけ。

 僕は忘れかけていた彼女との距離感を思い出しながら話しかける。

「少し前まで毎日会ってたのにね、本当に久しぶり」

「うん、そうだね」

 何か考え事でもしているのか、赤城さんの返事はどこかぼんやりしていた。

 手持ち無沙汰になった僕は辺りを見回してみる。

 石膏でできた彫像、制作途中のキャンバス、優秀賞をとった顔も知らない先輩の作品と何年も前の表彰状。教室にあるものは同じなのに、毎日見てきた教室は僕が通ったあの時とはどこか雰囲気が変わっていた。

 ふと、机の上のシャーペンが目に留まる。

「これは?」

「それ、私の」

 赤城さんが窓の外からこちらに視線を移して答えた。

 どこにでも売っていそうな黄色いシャーペン。僕は今までに彼女がこれを使うところを見たことがない。

「新しく買ったの?」

「違うよ。ずっとなくしてたんだ、これ」

「よかったね、見つかって」

 僕がそう言っても、赤城さんは考え込むようにじっとそのシャーペンを見つめている。

「……私たち、卒業するんだよね」

「どうした、急に」

「このシャーペンを見てたら色々考えちゃって。もしかしたら、見つからなかった方がよかったんじゃないか、って思うんだよね」

「どういうこと?」

 僕は彼女の言うことが理解できない。赤城さんは机の上の黄色いシャーペンを手に取りながら話してくれる。

「私、ここで何も残せてないんだ。成績も、作品も」

「それは僕も同じっていうか……」

 誇ることではないけど、僕たち二人は制作した作品で賞をもらったことがない。それでも、部活動をしてきた約二年間でいくつかの作品を作ってきたはずだ。

「確かに、私も何枚か絵を描いたし、立体にだって挑戦したよ。だけど、その作品はここにはないの」

「まあ、引退するときに全部持ち帰ったからね」

 それは去年の五月、進路に専念するため形式的に引退したときのことだ。

「……私は、この学校に何かを残すことができてない」

 彼女は言いながら、壁に飾られた表彰状を見つめていた。

「赤城さんは、賞を取りたかった?」

「ううん、違う。描いてるときはそんなこと考えてなかった。私の技術じゃ無理だってわかってたし」

「それじゃあ、どうして?」

 彼女の言葉の意味が見えてこない。賞を取るつもりじゃなかったのなら、何を残そうとしたのか。

「たぶん、私は具体的に何かを残そうって思ってたわけじゃない。本当は、その逆」

「逆、というと?」

「何も残せないで卒業するのがちょっと悔しい、って感じかな」

 彼女自身、何と言っていいのかわからないみたいで、曖昧な言葉だった。彼女は続けて言う。

「卒業が目の前に近づいてきて急にそんな風に考えるようになったんだ。このまま卒業したら、私はこの学校に初めからいなかったみたいに消えるんじゃないか、って」

 それを聞いて、僕はなんとなくだけど彼女の言いたいことが分かってきた。

「赤城さんは、自分がここにいたっていう証が欲しかったんだ」

「そう、そんな感じ」

 僕の言葉は彼女の思いをうまく言い当てられたみたいだった。赤城さんはようやく自分の感情に納得できた様子で、表情が少し柔らかくなる。

「ちょっとわかるよ、赤城さんのその気持ち」

「そうなの?」

「僕もここに入った時にはもっとすごいことができると思ってた。例えば、僕の作品が優秀賞をとるみたいな。でも、だんだん自分がどんな人間か分かってきて、そんなこと考えなくなったけどね」

「私だって、卒業直前になるまでこんなこと考えてなかった。だから、今になって後悔してる自分に困ってるんだよ」

 赤城さんが手に持ったシャーペンを二回ノックして、すぐに出した芯をしまう。それを見て、この話のきっかけを思い出した。

「それで、そのシャーペンが見つからない方がよかったっていうのは?」

「さっきの話の通りだよ。このシャーペンが見つからなければ、ここにずっと残すことができたのにな、って思ったの。でも、見つけちゃったから、またどこかに隠すことなんてできないし」

 赤城さんは困ったようにシャーペンを見つめて、手の中で一回転させる。一拍置いて彼女は言う。

「机に彫られたイニシャルもこのシャーペンと同じなのかもね。自分の存在をその場に残したいって、そういう感情の表れなのかも」

「そんなこと考えたこともなかったな」

 彼女の言うように考えてみれば、机のあの傷も印象深いものになるのかもしれない。

「だからって、公共の物に傷をつけるのはよくないけど」

 真面目な赤城さんらしい発言だった。胸の内を吐き出すように大きなため息をつく。

「もっと色んなことするつもりだったのになぁ」

「三年間のこと、後悔してる?」

「ううん、それはないよ。三年間、普通に楽しかった」

 僕の問いに即答した後、彼女は恥ずかしそうに言う。

「入学するときには、私にも恋人ができたり、もっとキラキラした青春を送れると思ってたんだよ。そんなの簡単にできるはずないのにね」

「結構、ぶっちゃけるんだな」

「卒業直前だし、今のうちに言っとかないと」

 胸の内を打ち明けて、どこかすっきりした様子で赤城さんは微笑んだ。それから、こちらを見て意地悪そうに目元を細める。

「瀬川君は今でもそういうこと考えてそうだね。第二ボタンを貰いに来る人がいるんじゃないか、とか」

 僕は即座に否定しようとするけど、心当たりがありすぎて言葉が出ない。とりあえず誤魔化しておく。

「そ、そんなことないと思うよ。僕にはボタンを貰ってくれるような人もいないし」

「……そっか、そうなんだ」

「……?」

 赤城さんの反応が思っていたのと違った。絶対誤魔化しきれないで、もっとからかってくると思っていた。

 彼女から口を開くことがなくなって、会話が途切れてしまう。

 その沈黙に居心地が悪くなってきた頃、赤城さんが僕に問いかける。

「瀬川君はどうしてこの部活を続けたの?」

「うーん……なんでだろう?」

 突然の質問に僕は答えがすぐに出なかった。正直、この部活を続けてきた理由なんてない。美術部に何か特別な魅力を感じていたわけでもなかった。実際、僕らが入学して美術部に入部した時には同級生が僕ら二人以外にも何人かいた。いつの間にか来なくなって、みんな辞めていったけれど。

「そんな大した理由はないんだけどな……。あえて言うなら、続けたかったから、かな」

「詳しく聞かせて?」

「……別に、入る部活はなんでもよかったんだよ。美術部じゃなくても、それが吹奏楽部だったり、野球部だったとしても三年間続けたと思う。たまたま一年の時に入った部活が美術部だっただけ。それでも、今ではここ以外の部活に入った自分なんて考えられないけどね」

 一度決めた部活を三年間続けてください。入学式で校長先生が話したことを、気づけば僕は律儀に守っていた。

「そっか……、そういう理由なんだ」

「理由っていうほどしっかりしたものでもないと思うけど。何となく続けてたら、今に至るってだけ」

「そんなことないと思うよ。……絵を描いてるときの瀬川君、すごく真剣そうだったし」

 部活中の僕が真剣だったなんて言われると、見られていた気恥ずかしさでなんだか照れくさい。

「赤城さんは? どうして美術部に入ったの?」

「私? 私は何と言うか……」

 さっきまではきはきと喋っていた彼女の言葉が少し淀む。なんだかとても言いにくそうに僕の顔をじっと見つめている。

「言いたくないなら、言わなくてもいいけど」

「……そうだね。私の理由は簡単に言えるようなものじゃないんだ。ごめんね」

「謝らなくてもいいよ。言いたくないことなんて誰にだってあるし」

「ありがと」

 彼女の言葉を最後に会話が終わる。どこかから聞こえてくる吹奏楽部の楽器の音が大きくなってきた。これを聞くことももうないのだと思うと少しだけ寂しい。

 そして、僕が赤城さんと会うこともおそらくない。

 彼女の方を見ると、手の中のシャーペンの芯を出してはしまうという動作を繰り返しながら、何かを考えているようだった。

 ふいに、赤城さんが僕の方を向く。その表情はどこか固かった。

「あのさ、瀬川君。お願いがあるんだけど、いいかな?」

「どうしたの? 改まって」

「これ、受け取ってほしいの」

 そう言って彼女が差し出したのは、先程から話題に上っていた黄色いシャープペンシル。赤城さんが自分の存在を残すために必要なもの。

 とりあえず受け取って、胸ポケットにしまう。

「これをどうして僕に? 大切なものなんでしょ?」

「うん、だからこそだよ」

「どういう意味?」

 僕の問いに赤城さんは直接答えてはくれなかった。

「私が部活を続けた理由、やっぱり言うね」

 そこで一拍置いて、大きく息を吸う。それから、覚悟を決めたようにこちらを見て彼女は言った。

「私は、瀬川君がいたから部活を続けてこれたの。瀬川君に会うために部活に来てた」

「それって――」

 彼女の真意を聞こうとした僕の言葉は最後まで届かなかった。

「――卒業おめでとうございます!」

 勢いよく開かれた扉から後輩たちが現れる。そのまま僕は話を続ける機会を逃してしまう。

 それでも、僕の胸ポケットに入った黄色いシャーペンからは彼女の気持ちが伝わってくるみたいだった。

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