愛の詩
コノハナ ヨル
第1話 愛の詩
私の父は優しい人だった。全てのものを慈しみ、愛し、その類稀なる神聖さから誰からも好かれた。部屋の中で見つけた小さな虫でさえ手で包んで外に逃すような、ゴミ箱の中にも煌めく星を見つけるような、そんな人だった。
ただ、その無限の愛はもちろん女の人にも向けられて。時折、母とは違うひとも愛してしまうようだった。
「お父さんはね、愛の人なの」
母は、父の愛は均質で、そこに優劣がないことを理解していた。だから辛くはないのだ、と。確かに父は、母を、私を、世界を、平等に愛していた。
そんな母だったが、父に向けるその真摯な愛はある日プツリと途切れてしまった。
何がきっかけだったかは、わからない。ともかく、私が中学生になって数日経った頃、母は小さなトランクだけを持って出ていき、二度と戻ってはこなかった。母の愛は一途で、けれど有限だったのだ。
父は、母が去っていたことを悲しみはしたが、愛するものをすぐに見つけられる人でもあった。すぐに、別の綺麗な女の人を連れてきて、一緒に暮らすようになった。何かと忙しい父に代わり、高校卒業までその人が私の世話をやいてくれた。誰にでも優しくて寛容で、どこか父に似た人だった。
大学生になり、私は家を出た。八百屋の二階に下宿をし、朝夕の食事を厄介になりながら、講義がないときは店でバイトをする。八百屋を切り盛りするおじさんとおばさんは、元気で愛想が良くて。だから、店はいつも繁盛していた。
けれど、おじさんの愛はむらがあって、同じ相手にですら時間や場所によって変化するものだった。お客さん以外にはとても冷たかったし、仕事のストレスが溜まると、おじさんは店の奥でおばさんのことをよく殴っていた。
おばさんは、痛みは一瞬だし、食いっぱぐれるよりここに居た方がなんぼかマシだと笑っていた。おばさんにとって愛は幻でしかないようだった。
そんなおばさんは、たまにお店のお金をくすねて、おじさんが寝た後どこかに行く。明け方、まだ皆寝静まっている中、ひっそり帰ってきたおばさんは、その日一日機嫌が良い。そういう時は、おじさんもおばさんのことを殴ったりはしない。軽い冗談を言って笑い合って、八百屋はいつも以上にキラキラキラキラ。活気と幸せに満ちていた。
社会人になった私は、下宿を離れ、ひとりで暮らすようになった。私のように察しの悪い人間には、仕事は苦労の連続だったけど、毎日必死に頑張った。
少し気持ちに余裕が出てきた頃、二つ上の先輩に請われて付き合うようになった。先輩は激しい愛をくれる人だった。毎日密かに与えられる熱のこもった視線に、囁かれる睦言に私は舞い上がった。きっと、これが私の求めていたものなのだと、心からそう思った。
けれど、先輩の愛は、クルクルと向きを変える風見鶏のようでもあった。新たな南風にあっという間に翻り、私は見向きもされなくなった。
私は仕事に打ち込んだ。
稼いだお金も、作り出した時間も、すべて自分のために使った。私は私のために、私を愛す。
けれど、愛は私と私の間で堂々巡り。だからちょっぴり虚しかった。
ひたすらに自分と、仕事と向き合い、月日は流れた。
定年を迎え、送別会でもらった立派な花束を抱えて帰途についた私は、コンビニの前で一匹の子猫を拾った。
小雨の中、段ボールに入れられてミーミーとなく灰色の生き物は、か弱く、だが執拗に助けを求めていて、それを無視することはできなかった。
私はカビ臭いアパートを引き払い、退職金をもとに庭付きの古い小さな一軒家を買って、1人と一匹で、ささやかに暮らし始めた。猫はあっという間に大きくなる。出会った頃とは打って変わって、太々しくなった。もう呼びかけたって、たまにしか来ない。
でもどんな日だって、夜は私のお腹の上で眠る。ギュウとした重みにまどろみ、柔らかな毛をひと撫ですれば、低い喉音がグルグルと心地よく部屋に響く。
私たちはお互いがいなくても、生きていける。
それくらいの逞しさは、持ち合わせているはず。
けれど、私にはこの猫が必要で、きっと猫にも私が必要で。
朝がくれば、猫は私のいうことなんか聞いてくれない。いつも通り、つんとすまして、しっぽをあげて。
私には、これくらいが。ううん、これがちょうどいいんだと思う。この愛の重さ、質感。
愛の詩 コノハナ ヨル @KONOHANA_YORU
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