Day 2-1 仮面の彼女と耳長の村

 結局、夜中に二度も目を覚ました。

 幸いなことに、そこまでの寒さは感じなかったが……とにかく暗闇が恐ろしかった。ごく僅かな星々の明かり、それに比してもなお輝く不思議な月。

 俺の孤独を際立たせるように、それらはただ静かに俺を見つめており――その視線に耐えられずに強く眼を瞑る。

 俺を、俺を見ないでくれ!

 そんな風にしていつの間にか意識が暗闇に包まれて……とにかくそんな風に夜を過ごした。

 夜の暗闇から意識の暗闇へ、逃げて逃げて――そんな感じだから、天上の月の色にも気が付かなかったんだ。金色ではなく、薄く青緑に揺らめくその怪しい輝きに。


 ◇◇◇


「◇◇◇!」

 人の声ではっと目を覚ました。目覚ましとしては最悪の部類だが、とにかく半身を起こして慌ててそちらの方を振り向くと、そこには大ぶりのナイフがあった。正確には、その切っ先が俺の方に向けられており、それを持つ仮面にローブという出で立ちに、頭からフードをすっぽり被った不審者がいた。目の前のナイフは新品などではなく、使い込まれた歴戦の貫禄がありつつ、しっかり手入れがされているのか、刃こぼれ一つない。薄暗い中でも煌めいており、実に良く切れそうだ。

「だ、誰だ!」

 反射的に誰何してしまうが……返ってくるのは予想だにしていなかった事象。

「◇◇◇? ◇◇◇!」

 その声から女性だと思われるのだが、全くをもって何を言っているのか分からない。ナイフから目をそらして彼女の姿を見てみるが、身長は俺よりも低いということくらいしか情報を得られない。ゆったりとした赤茶けたローブのせいでその体格は良く分からない。

「◇◇◇?」

 警戒しているようで、隙や油断のようなものは見えない。もっとも、そんなものがあったとしても、この状況ではどうすることもできないのだが。

「すまないが、何を言っているか分からない。俺は日本語しか話せないんだ」

 とにかく、話かけてみなければ。そんな思いとともにやや硬さをはらんだ声で自分の状況を説明して見る。

 ……ニホンゴ。

 おそらく彼女はそんな感じに唇を動かしたように思う。仮面に隠れてその表情は全く見えないが、なぜだか敵意や警戒が薄らいだ気がした。

「……とりあえず、そのナイフを下げて頂けないだろうか?」

 ニホンゴ、という言葉が彼女に通じたに違いない。

 そう判断して、さらにコミュニケーションを試みる。背中の冷たい汗が止まらないが、意識すると動けなくなってしまうので、できる限り平常心を保ち、ナイフの切っ先にだけ意識を集中する。

 俺は両手を上げたまま彼女に正対しつつ、ナイフをどけてくれ、というのを伝えるべく顎をしゃくってボディランゲージを試みる。

 こんなもので通じるのだろうか?

 そんな疑問をよそに彼女はあっさりとナイフを後腰の鞘にしまった。とりあえず、命の危機は去った、のだろうか?

「◇◇◇? ◇◇◇?」

 俺の心情は分かっていないであろう、空いた両手を使い彼女もボディランゲージで何かを伝えようとしてくるが、これがさっぱり分からない。ボディランゲージとは言うものの、実際には表情や口元の動きも非常に大事だということを初めて知った。

「すまない、全然分からない」

 俺は首と手を大きく振って、その旨を伝えようとした。それを理解したのか、彼女は大きく肩を落とす。なんだか申し訳ない気がするものの、分からないものは分からないのだから仕方がない。

 すると、彼女は後ろを振り返り、なにやら顔のあたりをごそごそとしている。これはまさか……。

「◇◇◇!?」

 彼女はくるりと振り返り、俺を安心させるように胸を張りつつ両腕を大きく開く。何を言っているのか判然としないが、『これでどうだ!』とかそういう感じだろう。

 しかし、俺はそんなことは全く頭に入っていなかった。彼女の美貌に目が奪われていた――まさかこんな表現を人生で使うことになるとは。

 フードは被ったままだが、先程までの怪しげな仮面は外されている。その代わりに現れたのは豊かな白銀の髪に、それと溶けて混ざるほどに白々とした雪色の肌。大きな瞳は雄大な朝焼けを閉じ込めたような赤錆色。小さな唇は俺に向けて微笑みを投げかけており、そこから白い歯がちらつく。

 思考が停止した俺は妙に細かなところまで捉えており、彼女の長いまつ毛が風に揺れるところまでしっかり脳裏に刻んでいた。

「◇◇◇!」

 何を思ったのか、彼女は腰のポーチから干し肉のようなものを取り出し、こちらに向けて突き出してくる。空いた方の片手でもう一つ取り出すと、俺の目の前で自分の口に入れてみせる。

「あ、ああ。いただきます」

 彼女から目を離せない俺は、半ば呆然としながらその肉を受け取り、反射的に口に入れる。

「って、かった! しょっぱ!」

 干し肉なんだから当然なのだが、彼女に意識を奪われていた俺には完全な不意打ちになってしまった。そのようにして俺が目とか顔とかを白黒させていると、彼女は小さく笑い声を上げる。その笑顔が妙に恥ずかしく感じた。

 ほとんど木の皮みたいなその肉をなんとか食べ終えたところで、彼女は手を差し出してくる

「◇◇◇」

 流石にこれは分かる。俺は慌てて右手を差し出して彼女の手をぎゅっと掴む。彼女の革製の手袋越しだったものの、わずかに温もりが伝わってくる気がした。

 その時、彼女の背後、遥か向こうにある山際から陽光が溢れる。俺の抱えていた不安を全て焼き尽くすように――彼女が後光を背負うように――俺を暖かく包み込む。

 『孤独なんかじゃない』

 理屈も論理も思考もなく、急にそんな結論だけが俺の心に飛び込んできた。わけがわからない、俺は一体何を考えているんだ――それでも、言葉で表現できない何かが肺腑に一気に注ぎ込まれ、あまりに簡単にあふれてしまう。

 だからこそ――あまりに格好悪いけれど――俺の両目からは涙がこぼれだしていた。

「◇◇◇?!」

 彼女は慌てたように手を離し、オロオロし始める。

「だ、大丈夫だから!」

 俺は右の裾でごしごしと涙を拭い、不器用に彼女に笑ってみせる。それを見てほっとしたようにして彼女も軽く微笑む。

「◇◇◇」

 彼女は太陽の方を指差しながら――いや、その指は太陽よりも少し下、森を指差しているようだ。そちらに連れて行こうとしているのは明らかだ。

 もしかしたら彼女の住んでいる集落があるのかもしれないが、どうする――なんて考えるまでもなかった。いつまでもこんな丘に居ても死ぬだけなのは間違いない。

 それに……彼女の笑顔を、ただ信じたかった。

 恥ずかしい話だけど、そう思ってしまった。

 俺は防寒用のシートや水をバックに仕舞って背負う。

「行こう」

 俺は彼女の顔を見ながら、出来る限り力強く頷く。彼女も頷き返し、俺を先導するように歩き始めた。

 さあ、どうなるだろうか。そんな風に思うものの、不安はなかった。



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