第5.5話「秋祭りの後で」


 そしてやってきた週末、土曜日。場所は高台の神社、約束は午後六時。

 神社入口のベンチに座る俺のスマホに、長門ながとからのメッセージが届いた。


「時間ぴったりに到着予定! 上総くんは?」


 添付されていたのは金魚のイラストのスタンプ。それがにっこり微笑みながら、スマホの中を気ままに泳いでいた。

 友達互助会の発足とともに、俺は長門とスマホでのメッセージのやりとりもしている。手紙とは違って、タイムラグはほとんどゼロ。思ったこと、感じたことがすぐに伝わる、とても便利な電子上のメッセージ。

 

「俺はもう着いてる。気をつけてきてくれ」

「出遅れた! すぐに行くから待ってて!」


 今度のスタンプは、金魚が猛スピードで泳ぐ姿のものだった。画面を見て思わず笑ってしまう。自分にこうして、女の子とメッセージのやりとりをする日が来るなんて思ってなかったから。


 今まで親の都合でずっと転校続きで、一ヶ所に長く留まれなくて。自分の性格もあるだろうけど、仲の良い友達はほとんど出来なかった。

 でもこの高校に入って長門と出会った。それにもしかすると、この高校には卒業までいられるかも知れない。

 父親が長年勤めていた会社を辞めて独立したのだ。母親もそれを手伝っていて、うまく行けばしばらくここに居られそうな気がする。


 もう少しこの日々が続けばいいと思う。でもそれは高校が終わるまででいい。前から決めていた通り、俺は卒業したらこの家を出て一人暮らしをするつもりだ。両親と仲が悪い訳ではない。でもこれは譲れない決意だ。

 ──自分の居場所と呼べる場所を作りたい。そしてもう一度、夏帆と一緒に過ごしたい。それは俺が子供の頃から持っている数少ない夢だから。


 だけど俺は、本当にそれを望んでいるのだろうか。現状、夏帆と繋がっているのは手紙のやりとりだけ。その手紙にスマホのIDを書けば、夏帆とメッセージのやりとりができるかも知れない、とは思う。だけど。それを忌避している自分がいるのも確かだった。


 もちろんスマホでのやりとりを望んでいない訳じゃない。夏帆の声だって久しぶりに聞きたいし、成長した姿も見てみたい。でも、それは夏帆との「手紙の関係」を壊してしまうことに繋がる。それがどうしようもなく怖かった。

 夏帆と過ごせたのは一年と少しだけ。それも小学校の頃だ。今の俺は、あの頃の俺ではなくなっているし、夏帆だってもうあの頃の夏帆じゃない。それを認めるのが怖いのだ。

 だから俺は、スマホという中途半端な方法ではなく、直接会って夏帆を確かめたかった。そして今の俺を知ってほしかった。それで夏帆に嫌われたら、仕方ないし納得ができるだろうから。


 だから俺はきっと。今後も夏帆への手紙に、自分のIDを書くことはないだろう。

 それになにより。夏帆が手紙に、自身のスマホのIDを書いていないということは、少なくとも夏帆はそれを望んでいないからだと思う。

 俺は今のままでいい。高望みはせず、糸のように細い手紙のやりとりを続けたい。できることならもう少しだけ。夏帆と再び会える、その時まで。



  ◆◆◆



「だーれだ?」


 突然、視界が暗くなった。誰かが後ろから俺の目を覆っている。間違いなく長門だと思うし、声も彼女のものだ。でも長門がこんなことをするとは、ちょっと思えない。


「あれ? わかんない?」

「いやわかるよ長門。でも、長門がそんなことするとはちょっと思えなかった」

「あはは、だよね。私もこんなことするキャラじゃないとは自分でも思うよ。けどさ、」


 長門はそこで言葉を切る。そして何故か言いにくそうに、ゆっくりと言葉を継いだ。


「……すごく寂しそうな顔、してたから。もしかして上総くん、私と遊ぶの乗り気じゃなかった? って思っちゃって、それでちょっとでも楽しんで貰えたらなって。迷惑だったら、やめるよ?」

「いや、そんなことないよ。誘ったのは俺だしな」

「本当? じゃあ、もう少しこのままでいさせて」


 意外な言葉だった。ベンチに座る俺に、長門は後ろから身体を密着させてくる。目を覆っていた手は、俺の胸の方へと回される。完全に後ろから抱きしめられる格好だ。

 長門の小さな息遣いと温かな体温。そして柔らかな石鹸の香りを、背中に感じる。初めてだけど不思議と心地よい感覚に、俺は身動きができない。


「……上総くんは、何を抱えてるんだろうね。キミはいつも何かを悲しんでる。ずっと近くにいる私にはわかるよ。できることなら、私に話してほしいな」

「別に、悲しんでることは何もないよ」

「上総くんにとっては、そうなのかも知れない。でも私には、キミが悲しんでるように見えるんだ」

「どうして長門は、俺にそこまでしてくれるんだ?」


 俺を抱きしめる長門の力が、少しだけ強まる。長門は意を決したように言う。


「上総くんが何かに困ってたら、何かに悲しんでいたら、それを私が助けたい。そして私が困ってる時は上総くんに助けてもらいたい。それが私の思う『友達』だから、かな」

「ありがたいけど本当に、何かを悲しんでる訳じゃないんだ。だからその助けは、俺には要らないよ」

「でも……」

「でも。何かと引き換えじゃないと、誰かを助けられない訳じゃないだろう。長門が何かに困ってたら、何かに悲しんでたら、俺は絶対に助けるよ。何があっても。それが俺の思う『本当の友達』だから」


 ややあってから。長門は小さく「嬉しい」と呟き、ようやく俺の体を解放した。俺の前に回り込むと、長門は遠慮がちに手を差し出す。長門の顔は明らかに赤い。暑すぎる残暑のせいだけだとは、俺には思えなかった。


「行こう、上総くん。夏の終わりはもう目の前。夏が終わっちゃう前に、あの金魚のペアを探さないとね」


 その手を握って、俺はベンチから立ち上がる。

 長門が何を抱えているのか、俺にはまだわからない。でもその重荷を少しでも軽くしてやれたらいい。目の前にいる友達の姿を見て思う。


「行こうか、長門」

「うん、行こう」

 

 長門の言うとおり、夏の終わりは目前だ。だからもう少しだけ。ほんの少しだけ。

 せめて今日が終わるまでは夏であってほしい。そう願いながら、俺は長門と一緒に鳥居をくぐった。




   ◆◆◆




「……夜の学校ってさ、独特の怖さがあるよね。音楽室のピアノとか、理科室の人体模型とか、美術室のモナリザとか」

「そんなものより俺は、誰かに見つかる方が怖いよ。無断で夜の学校に入るなんて犯罪だからな、見つかったらごめんなさいで済まないだろうし」

「でも、上総くんはこうして共犯者になってくれてるじゃん? それだけで心強いよ」


 長門は嬉しそうに言った。本人が怖いと言う、夜の学校内とは思えないほど明るい声色で。


 スマホのライトを頼りに、俺と長門は夜の学校に忍び込んでいた。理由はもちろん、さっき掬ったばかりの金魚を例の噴水に放してやるためだ。その金魚は、金魚袋の中で大人しくしているけど、この中では絶対に長生きできない。それにお互いの家に水槽はない。だから少しでも早く、噴水の池に放してやる必要があったのだ。


「誰もいないね……」

「いたら困る。通報待ったなしだろうから。あと長門、校舎の方には近づくなよ。機械警備が入ってたら警察が飛んでくる」

「それは怖いなぁ。あ、そうだ。今日のこと思い出しながら歩こうよ。楽しい気持ちって、怖い気持ちを打ち消せるじゃん? 今日は本当に楽しかったからね」


 長門と祭りの話をしながら、中庭の噴水広場へと歩を進める。九月最終週の月は少し欠けていた。今日も静かな水面みなもには、その月が美しく浮かんでいる。

 長門は金魚袋を逆さにして、中の金魚を池に放してやった。金魚は元気そうに泳いでいく。長門は安心したように息をついた。


「よかった。新しい子も元気そうだね」

「元々のアイツは見えないな。寝てるのか?」

「きっとそのうち出会えるよ。つがいになればいいね」


 新しい金魚は、スマホのライトが届かない奥まで行ってしまったようだ。元々いたアイツと、いい出会いになればいい。欲を言えばつがいになってほしい。まだ同性のコンビという説は捨てきれないけれど。


「オスとメスに分かれてたらいいよな。いつか、ここに金魚が増えるかも知れない」

「きっと大丈夫だよ。私が選んだ新しい子は、なんか上総くんぽかったし」

「俺っぽい?」

「金魚すくいの水槽で、あの子は群れから離れてたけどさ。でも堂々としてたし、凛としてた。だからきっと新しい子はオスだと思うな」

「元々のアイツは?」

「あの子も群れから離れてたけど、水槽の隅でじっとしてたから。誰にも見つからないように、関わらないように。まるで私みたい。だから元々のあの子は、きっとメスだね」


 長門はポケットから例の小瓶を取り出すと、中身を水面に傾ける。さらさらと落ちていくエサ。水面に浮かんだ月とぶつかって、それは水の中へと消えていく。


「二匹が仲良くなれればいいね。そうしたら、私みたいにさ。もう少し生きててもいいかも、って思えるかも知れないから」

「何だよそれ。いなくなるのは困るぞ。俺の友達は、ここには長門しかいないんだから」


 長門は曖昧に笑った。困ったような、悲しいようなその笑顔。そんな笑い方をする女の子を、俺はもう一人知っている。

 不意に夏帆かほのことが頭をよぎる。夏帆とも祭りに行ったことがあった。あの時も夏帆は、こんな風に笑っていたっけ。

 夏帆と、目の前の長門の笑顔が重なる。何かを諦めるのに慣れてしまったような顔。昔の夏帆に似た笑い方で、長門はゆっくりと告げた。


「……私さ。去年の二学期に転校してきたじゃん? その理由、知ってる?」

「いや、知らない。でもどんな理由であれ、長門がここに来てくれて俺は嬉しいけどな」


 上総くんは、いつだって優しいよね。

 長門は水面に映る歪んだ月を眺めて、言葉を継ぐ。


「うち、父子家庭でね。それに父親は本当にいい父親じゃなくて、悪いことして警察に捕まってさ。私は親戚中たらい回しにされて、それでここに来ることになったの。殺人未遂だからきっとしばらくは出てこれない。でもどこから漏れたのか、去年のクラスではそれをみんな知ってて。悪人の子供って陰で言われて。だからずっと一人だった。ずっと。上総くんと出会うまでは」


 突然の告白に、俺は何も言えなかった。ただ長門の言葉を聞くことしかできない。それでも長門は笑っていた。でもその声色は、まるで身を切られるような悲痛なもの。


「上総くんのことは知ってたよ。別のクラスで、私みたいにいつも一人でいるキミのこと。でも私とは違って一人なのを気にもしていない。堂々と、凛としてるキミが眩しかった。格好良かった。いつか話をしてみたいと、そう思ってた」

「俺はそんな人間じゃない。長門の買い被りだ」

「買い被りでも、間違っててもいいの。私がそう思ったんだから、私の中ではそうなんだよ」


 長門は言い切るように続ける。その姿は、泣いているように思えてならなかった。


「そして、あの日が来た。噴水の前で上総くんを見つけた夏期講習の日。ここが勇気の出しどころだって、このチャンスを逃せば二度と来ないって、そう確信した。あの時、久しぶりに声を出したんだけど、私の声うわずってなかった?」

「……大丈夫。ちゃんと聞こえたよ、長門の声は」

「そっか。やっぱり勇気を出してよかった」


 その日、一番綺麗な笑顔で長門は笑って。

 そして、俺に告げた。


「キミが好きだよ、上総くん」


 俺の返答を待たず、長門は続ける。


「付き合ってとか、私のことを好きになってとか、そんなことを言うつもりはないよ。ただ少しの間だけ、私と一緒にいてほしい。どうせ私は、高校を卒業したらここからいなくなる。もしかしたら卒業より早くなるかも知れない。だからその時まででいい。キミの隣に、いさせてほしいの」

「それは……」

「上総くんの隣は、呼吸がしやすい。安心できるからかな? つまりはさ。私の居場所になってほしいんだ」


 長門は小瓶のフタを閉めて。おもむろに、ゆっくりとした仕草でベンチから立ち上がる。


「すぐに答えを出してなんて、そんなこと言うつもりもないよ。ただ、考えてくれると嬉しいな。それじゃあ月曜日ね。今日はとても楽しかった。きっと一生の思い出になると思うよ。ありがと、上総くん」


 長門はそれだけ言うと、一人で夜の学校を後にする。追いかけようと思ったけど、できなかった。なんて言えばいいか、わからなかった。

 長門の気持ちは嬉しい。好きだと言われたことも、もちろん嬉しい。そして長門が望むのは、ただ俺の隣にいることだけだ。

 俺は……、俺はどうすればいいのだろう。いや。俺はどうしたいのだろう。


 長門が去った中庭には、もう誰もいない。

 俺一人だけ。そしてその「一人」ということがこんなにも寂しいと、久しぶりに思ってしまう。それはずっと、長門と居たからに違いない。

 




 その日の帰り道。家に入る前に玄関ポストを覗くと、このタイミングで夏帆からの手紙が届いていた。

 夏空を思わせる水色の封筒に、美しい角島大橋の切手。それは見事なまでに夏を閉じ込めた手紙だ。

 中身を読んで、すぐに返事を書かないとと思った。夏帆が将来のことを教えてくれている。勇気を出して、俺に伝えてくれている。それに応えなければと、そう思った。



 ──でも俺は。

 夏帆への返事が、どうしても書けなかった。




【続】


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