欠けのある宇宙
磯崎愛
1
日名子は頭を抱えていた。コンペティションの締め切りが迫っている。新しく建て変えられる博物館のアートアトラクションを選ぶそれは、学業を終えて十年未満の芸術家が対象とされる大きな賞だ。
日名子は今まで芸術家にしばしば訪れるとされるスランプとは無縁だと思っていた。常にインプットは欠かさないばかりか芸術家は身体が資本だと信じていればこそ、不摂生もしないよう気をつけた。なにしろ如実にメンタルにくる。遺憾ながら思春期の頃に我が身で実証済みだった。
かつて早熟の天才と呼ばれた日名子も年をとった。そしてどこにでもいる、けれども堅実な芸術家になった。一定量の、確かな質をたもった作品を、コンスタントに世に問い続けることができていると信じてもいた。それが密かな自慢だった。
だから、このコンペティションに応募する最後となる今年こそ、なんとしても受賞したかった。学生時代はさておき、ちかごろ大きな賞にとんとご無沙汰なのだ。
今日もう何度目かわからないため息がこぼれた。片頭痛の気配がある。
日名子は軽くあたまを揺すって椅子から立ち上がる。カフェインが欲しかった。かかりつけ医と相談の上、摂取量は厳密に決めてある。
コーヒーや紅茶では到底足りない。もったりと重い濃茶が欲しい。
その前に、と日名子はつぶやいて船内コンシェルジェに連絡を入れた。
前の寄港地でもう二年も会っていない母親たちが送ってくれた誕生日プレゼントを受け取ってある。茶碗だと言っていたから検疫を無事通って保管されているはずだ。茶室へはそれを持っていったほうがいい。
日名子が住まいと定めた恒星間宇宙船に自分専用の茶室を構えたのは恩師のすすめだった。いわく茶道とは総合芸術であり、五感を使い尽くすことができる上に精神統一に向いていて、しかも自分以外の存在を招き入れ互いの差異を認めながら飲食を伴った時間を過ごす遊芸でもある――芸術家にはうってつけだと言い張った。
そもそも太陽系第三惑星人の子孫たる日名子には、故郷と呼べる星がない。地球は今、不幸な災厄の後、保全のため特別な《水晶球》の内側に囚われている。だから日名子が生まれ育ったのはこことは違う巨大な船のなかだ。大学以外の時間はすべてそこで過ごした。
侘茶の祖たる千利休が「客を敵と思え」と述べたそうだが、宇宙軍の士官学校では茶道が推奨されている。民間の茶室搭載宇宙船も決して珍しくはなかった。ミニマムな場所における合理的なプロトコル――銀河系のありとあらゆる人々にとって、互いの文化の違いは交流するのに障害となった。されどすでに失われてしまった星のそれならば、どちらが優位であるかを問う必要がなかった。そのうえ太陽系第三惑星の文化を取り戻すための努力をしているとも言えた。要するに、都合がよかったのだ。それらが「文化の収奪」だと嘆く地球人も、グロテスクだと非難するその他の星の人間もいなかった。何しろ本当にそれどころではなかったのだ。
恩師の口ぶりにはかつての地球で言うところの「オリエンタリズム」とも呼ぶべき好奇のまなざしがあるような気がした。その一方、パトロンとの関係を築くときに茶室があるのはありがたかった。互いの距離が亭主と客として正しく測られる。失われた星の生き残りだと、あわれみの目を向けられるのは避けたかった。
母親たちは地球環境によく似せたコロニーを選ばなかった。ふたりは離れたりくっついたり自由気ままに婚姻生活を続けていたし、双方ともよく独りで旅に出た。仕事だと説明を受けた。日名子は置いていかれてさびしいとは言わなかった。彼女たちの生んだ子供ではないと知っていた。市民としての義務と権利の行使として、日名子を引き取ったのだと思っていた。
それなりに長い時間、それぞれの両親にも預けられた。友人や親戚だという人間たちにも。気の合う合わないはあったけれど誰もかれも悪いひとではなかった。母親たちはそれぞれに何か――土や金属、はたまた技術者や芸術家――を探していたし、ひとところに落ち着くのを嫌った。日名子は尋ねたことはないけれど、地球を襲った災禍のときに先祖がたまたま宇宙空間にいて助かったせいなのかもしれないと感じていた。
そのせいか、日名子のデビュー作は星の海を視るものだった。それは巨大な神の眼が広大な宇宙空間を眺め渡し、何もかもを観測しているという体で展開された。あるものはかつて地球にあった星座という概念を委ねられて物語に身を浸し、他のあるものは過去の歴史の語られなかった細部を手にしたと感じられた。日名子の作品は多くの人間たちにとって魔法だった。それはイメージを操る技術だ。映像と音楽と言語を扱い、記憶に訴えかける。手触りはまだ、読み通りに操れない。味覚と嗅覚が記憶に結びつきすぎているのは紅茶とマドレーヌを例に出すまでもないため除外してある。
日名子は箱を受け取って茶室に行く。
苔生した露地は雨上がりの後で夕闇のなかですら緑を艶やかにして見せている。このくらいの広さなら雨を降らすのも決して難しくはなかった。空はホログラムだし、なんなら客人によっては掛け軸もその生まれ故郷の景色など映したりする。
日名子は四畳半に入り込んだ。夕暮れ時の茶室の内側はもう暗い。棚にうっすらと埃がかぶっている。おそらく畳も同じだろう。靴下を履いているのでわからない。炉は切っていない。コロニーなら可能だけれどこの船では菊墨まで用意できなかった。
丁寧に箱をひらく。割れ物だから。壊れ物が贅沢だと船に乗って知った。
日名子の先祖たちは、茶室を移動できるものとして考案した。それと同じで、土、木、草、紙、花、香、何もかも移ろいゆくものを好んで茶室に用い、持ち込んだ。
牡丹の花のごとく幾重にもくるまれた紙包み、それを取り除いてあらわれたものに日名子は息をつめた。
曜変天目茶碗――掌のなかに漏斗状の宇宙が転がっている。
暗黒と瑠璃、濃艶な青と涼やかな水色、そして太陽光スペクトルをまとわせて漏斗状のかたちに頽れていく宇宙があった。
掌のなかで転がすと金覆輪の周囲に散る細かい金砂のごとき黄金が煌めいて、黒と青に紫や緑や白、それから黄緑と青磁色が揺らめいて浮かぶ。まさに千変万化、しかもそこに太陽の燃える炎の色がある。夜の帳の紺青と沈みゆく太陽の橙が鬩ぎあう、地平に漂う広大な「ひかり」がそこにあった。
うつくしかった。そして恐ろしかった。
写し、だということはもちろんわかっている。けれども手指がふるえた。
茶碗は縁の一部がかけていて、そこに朱の色がつよかった。畳において拝見すると口は少し傾いでいる。うえから見て、完璧な円を描くことはない。
それが美意識かとも思えたが、日名子には正確なところはわからなかった。それでも何か、ほっとする気持ちがあった。これほど美しくとも、欠けがあり歪みがあり完璧ではないことに。
日名子の応募するアートアトラクションも地球遺産と呼ばれる博物館におかれる予定だった。地球はもう、事実上なくなってしまったに等しい。だからこそ、せめても地球での暮らしや環境を取り戻そうとみなが働いているところなのだ。むろん、そうした努力自体を疎んじる地球人たちも多くいる。後ろを振り返るな前を向けというひとたちの言い分も日名子にはわからなくはない。
母親たちに、過去のことでなく目の前にいるわたしを見てほしい。そう訴えなかった自分を意気地なしだと思うことがあった。思春期を過ぎてから好意を寄せてくれる相手にも自分を委ねられなかったのは、親子関係になにかが足りなかったせいかもしれないと考えることもある。それでも、似たような環境にあっても円満な人間関係を永続的に築き上げている友人たちもいるのはわかっていた。
円満――それが手に入らない自分を情けなく思うこともあったけれど、こうまで美しいものを見てしまえばもう、日名子の頭はそれでいっぱいになる。
マクロコスモスとミクロコスモスの照応についてはもともと考えていた。光と闇の相克は神話にくりかえされ、そしてニュートンによって音階と同じく七色に合わせられた虹は後の時代には多様性の象徴としての意味を持つようになった。色の象徴性だけに絞ってもやれることは多いだろうと想像して息が苦しくなるくらい興奮した。
いつの間にか日が落ちて月明りが茶室にさしこんでいた。足を崩して息をつく。何気なく箱の中を見ると、茶碗をつつんでいた紙とは別に手紙が折りたたまれていた。手書きの文字を追うにつけ、日名子の目じりが下がっていく。
母親たちが、この天目茶碗で地球の遺産を取り戻す大きな仕事をひとつやり遂げたのもわかった。誕生日祝いの言葉のすぐ後に、この仕事の成果ばかり書かれていた。
それが嬉しくて、楽しくて、なにより面白くて日名子は喉をならした。
もうカフェインはいらないくらい興奮している。
ひさしぶりに母親たちの顔が見たい。声が聴きたい。できることなら抱きしめたい。おかげさまで次のアートアトラクションのイメージを掴んだと伝えたかった。それさえ手にしてしまえばこっちのものだ。
日名子は丁寧に茶碗を棚の上に置く。
賞をとったらお母さんたちをこの茶室に招いてお祝いをしたいな――日名子は言い訳のできた嬉しさに頬を緩めてから首を横に振った。
ううん、とれなくても。自分からアクションを起こして伝えたらいいだけだよ。もう、ちっちゃな子供じゃないんだから。
ホログラムの月光が、金覆輪をきらりと舐めた。
了
欠けのある宇宙 磯崎愛 @karakusaginga
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