後編
ジャクリーンの後ろ姿を見送った後、コルテスの侍従のステファンは、揺れる馬車の中でコルテスをじろりと見やった。
ステファンは、侍従とはいっても、王子に側仕えするだけあって貴族位は有しており、とある伯爵家の次男に当たる。彼は、堅い雰囲気を纏っているけれど、端正な顔をした好男子だった。コルテスの8つ年上で、なかなか鋭い目を持っている。
「コルテス様、本当にこれでよろしかったのですか?」
「ああ、これでいい。彼女にも、揉めることなく婚約破棄を了承してもらえたしな。
……彼女と話している間、お前の責めるような視線は、嫌というほど感じたけどな。後悔はしていないぞ」
「あれほどの素晴らしい女性には、なかなかお目にかかれないですよ。今からでも、婚約破棄を反故にしてもらったらいかがです?」
コルテスの顔が怒りで歪む。
「そんな恥ずかしい真似ができるか!男に二言はない。
それにな、もう僕の気持ちは彼女にはないのだから、ふざけたことは言うな」
ステファンは溜息混じりに大きくかぶりを振った。
「ジャクリーン様は、あんなに気立てがよくて、頭の回転が速くて……」
コルテスは、さらに苛立った調子で顔を顰めた。
「それほど彼女を褒めるなら、お前が代わりに彼女を娶ったらどうだ?
……彼女に、僕との婚約破棄による不利益ができるだけないようにしたいのは本心だが、僕がいくら手を尽くしても、彼女が今後腫れ物扱いされることは、きっと避けられないだろう。それに、お前なら家格も釣り合うしな。
頭の良さなら、リナリアの方がよほど上だよ。この前だって、彼女は僕に、接戦の末にチェスで勝っただろう?
ジャクリーンは、僕にチェスで勝ったことなんてないじゃないか」
ステファンは、コルテスが熱を上げている子爵家令嬢のリナリアの名前を出すのを聞いて、つまらなそうに答えた。
「リナリア様がコルテス様にチェスで勝ったのは確かですが、ジャクリーン様が貴方様に勝ったことがないというのは、コルテス様の勘違いですね」
「何だと?」
「コルテス様がジャクリーン様と初めてチェスで対戦した時、貴方様はぼろぼろに惨敗してえらくヘソを曲げられました。その様子を見て心を痛めたジャクリーン様は、それから手心を加えるようになり、コルテス様にわざと勝たせるようにしていますね」
「……」
確かに昔、そんなこともあったような気がしたコルテスは、軽く咳払いをしてから続けた。
「そうだとしても、だな。
成績だって、リナリアはだいたい一桁の順位を取っているのに、ジャクリーンは中の中だ。その点から見ても、リナリアの優秀さは明らかだろう」
「……貴方様の成績は、大抵、上位3分の1といったところでしょうか。
ジャクリーン様には、昔、ご自分のプライドを傷付けるような、ご自分より優れた令嬢は嫌だと溢していたのを忘れましたか?」
「彼女の成績は、僕を慮ったせいだというのか?」
「ええ、そう思いますね」
コルテスは、そんな筈はないと呟きながらも続けた。
「でも、ジャクリーンのあの姿を見てくれ。今はお世辞にも美しいとは言えないだろう。
それに比べて、輝くようなリナリアの美貌といったら。
それに、ダンスだってリナリアは華があるし、彼女が踊る様子にはつい見惚れてしまうけれど、ジャクリーンは、私と簡単なステップを踏むだけで、いつもすぐに引っ込んでしまうぞ」
「リナリア様は化粧映えするタイプのようですね。
……ジャクリーン様が昔、化粧をされて、美しいドレスを身に纏って舞踏会に現れた時、あまりに他の男性陣の視線をかっさらったために、コルテス様がやきもちをやいたことがありましたね。彼女を隠すようにした貴方様が、今後は二度と化粧などするなとごねたのは、もうお忘れですか?他の男性と踊ることなど、もってのほかだとも仰っていましたが」
コルテスはやや俯いた。
「そ、そうだとしても。
あれほど体型が膨らんだのは、さすがに本人の努力不足じゃないのか?」
「毎回、手土産に、丸ごとホールでケーキなんて持参するからですよ。しかも、食べている君の姿が好きだなんて煽って、残さず食べるようにさせたのもコルテス様ですよ。体重が増えるのも、そして肌荒れするのもある意味当然です」
「つまり、出会った頃のジャクリーンがこのように変わってしまったのは、僕のせいだとでも言いたいのか?」
「左様でございます」
「……くだらない。
お前はどうも昔から彼女に肩入れし過ぎるところがあるから、そんなことを言うのだろう。
もういい、終わったことだ」
「……わざと、男避けのために、ジャクリーン様にそうさせていたのかと思っていたのですが、違ったのですね。
それから貴方様は、ご自分に都合の悪いことはすぐに忘れてしまうようですが、それは悪い癖だと思いますよ……」
「はっ、余計なお世話だ」
コルテスに、残念なものを見るような目を向けるステファンから、コルテスは不快そうに顔を背けて足を組み替えた。
***
ジャクリーンと顔を合わせることを、気まずさゆえにしばらく避けていたコルテスが、リナリアと婚約を結び直した後に、たまたま学園でジャクリーンと出会したのは、彼女との婚約破棄から凡そ半年後のことである。
コルテスは、ジャクリーンの姿に目を見開くと、自分が目にしている現実が信じられずに、口をあんぐりと開けた。
「君は、ジ、ジャクリーン……?」
「あら、お久し振りでございます。コルテス様」
目の前でにっこりと微笑むジャクリーンは、すっかり痩せて別人のように、いや、初めて会った時の姿を彷彿とさせるように美しくなっていた。元々の整った顔立ちを、ほんのりとした薄化粧が引き立て、吹き出物も綺麗に治っている。彼女のことを惚けたような目で追う男子生徒たちが、ちらちらと様子を伺っているのがわかる。
コルテスは、口をぱくぱくと開いたり閉じたりしながらも、今しがた発表された期末試験の成績の順位表を見上げた。順位表の周囲には、人だかりができている。
リナリアの名前を、11位の場所に見付ける。コルテスは、今回は善戦したものの13位だ。
ふとコルテスが視線を上げると、学年首位の場所にはジャクリーンの名前があった。
「……!」
驚きの目を向けるコルテスに、ジャクリーンは優雅に一礼すると、何事もなかったかのように、側にいた友人たちと一緒に立ち去って行った。
コルテスは、自らの横に伴っていたリナリアにちらと視線をやった。
彼女と婚約するまでは周りが見えていなかったけれど、周囲に慕われるジャクリーンとは異なり、リナリアには親しい友人が少ないようだ。それも当初は庇護欲をそそったものだが、これは彼女のきつい性格に由来するものだと、後から気付いた。コルテスも、次第にリナリアと過ごすのが息苦しくなり、さらに夕刻付近になると、崩れ始めた彼女の厚化粧が気になるようになってしまった。
どこか順位に不服そうなリナリアは、きっと今日も機嫌が悪くなるのだろう。婚約してからは、彼女はコルテスにも遠慮がなくなってきていた。コルテスは、穏やかなジャクリーンと過ごした時間が、涙が出るほど懐かしくなった。
過去に思いを馳せながら、ぼんやりとコルテスが迎えの馬車へと向かうと、何やらステファンと親しげに話し込むジャクリーンの姿があった。
コルテスの姿を認めると、ジャクリーンはステファンに手を振って歩き去って行く。
コルテスは八つ当たり気味にステファンを睨んだ。
「何だ、ステファン。君は、ジャクリーンがあのようにまた美しくなったのを知っていたのかい?」
ステファンはコルテスの言葉にきょとんとした表情になった。
「はあ、それはもちろんですが。
自分の婚約者のことを知っているのは、当然でしょう?」
「はあっ!?」
「……コルテス様がリナリア様と婚約なさったのとほとんど同じ時期に、ジャクリーン様との婚約をご報告いたしましたよ。
でも、貴方様はあの頃、リナリア様との婚約に浮かれていらっしゃったので、私の言葉も左耳から右耳へと通り抜けていたのかもしれませんね」
「……」
そう言えば、確かに、コルテスはステファンから婚約したと聞いた気がする。ずっと独り身だった彼が身を固めることになったと聞いて、ようやくかと思った記憶はあったが、まさか相手があのジャクリーンだったとは。
今更ながら、その羨ましさに瞳から光の消えたコルテスに、ステファンが微笑みかけた。
「思えば、ジャクリーン様との接点ができたのも、コルテス様のお蔭ですね。ジャクリーン様との結婚を勧めてくださったのも、貴方様ですし。
改めて、お礼申し上げます」
「はは、そうかも知れないな……」
ステファンが、力なく笑うコルテスを馬車に乗せると、馬車は帰路へと出発した。
***
「アンナ、今日、帰り際にステファン様と会えたのよ」
にこにこと嬉しそうに頬を染めるジャクリーンに、アンナも笑みを返した。
「それはようございましたね。
……コルテス様との婚約破棄後、『もうステファン様と会えないなんて』と嘆き悲しむジャクリーン様の言葉を聞いた時には、そちらだったのかと、それは驚きましたが。
コルテス様に婚約破棄されたお蔭で、ステファン様と婚約できたのですものね。人生、何がよい方向に転ぶか、わからないものですね」
「コルテス様も、多分、少し子供だっただけで、悪い方という訳ではなかったけれど。でも、コルテス様に理不尽なことを言われた時、ステファン様だけは私の気持ちを理解してくださっている様子なのが、私の心の支えだったの。そのうちに、ステファン様のほうをお慕いするようになったのも、私にとっては自然な心の動きだったわ。……コルテス様と婚約している時には、口が裂けても言えなかったけれどね。
コルテス様から婚約破棄されたお蔭で、コルテス様向けのいろいろな我慢からも解放されて、身体も心も随分とすっきりした気がするわ」
「お嬢様がお幸せそうで、私としても何よりです。結婚式が楽しみですね」
ふわりと微笑むジャクリーンの美しさに、最近ますます磨きがかかって来た様子に、ドレス選びや化粧にさらに腕が鳴るようになったアンナもまた、満面の笑みを浮かべたのだった。
箱入り令嬢の変身と献身 瑪々子 @memeco
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