終末はいつも突然やって来る
「あいつ、何をやっているんだ」
私の声に呼応するように映像が拡大された。妻が持っている赤い容器には『強力全滅アリの巣コロリ』と書かれている。
「なんてこった。忌避剤にしてくれと言ったのに殺虫剤を買ってきたのか」
大きな誤算だった。妻がこれほど意固地だとは夢にも思わなかった。ノイローゼに近い状態なのかもしれない。
「どうやらこの施設を放棄する時が来たようですね」
シツジは取り乱すことなく左手を振った。レストランは消滅し最初に来た時と同じ野原の真ん中に私たちは立っていた。
「殺虫剤くらい君たちの科学力でなんとかならないのかい」
「残念ながら全ての分野において秀でているわけではないのです。化学に関する知識はほとんど持ち合わせておりません。これだけ土が汚染されてはもはやどうにもなりません」
「すまない。絶対に虫を殺すなと妻にはきつく言ってあったのだが」
「謝ることはありませんよ。薬の散布は日常茶飯事ですからね。このような事態に備えて隣接する空き地に予備の巣を用意してあるのです。ひとまずそこへ退避するつもりです。さあ、あなた様も元の大きさに戻って地表にお帰りください」
「そうか。無事に逃げおおせてくれ。今日はありがとう。楽しかったよ」
「いえいえ。またお会いできるといいですね」
シツジが右手を振った。周囲から明るさが消え土の壁がずんずん下降していく。いや違う。私の体が上昇しているのだ。何もかもが小さくなって落ちていく。急変する風景。しかしそれは一瞬だった。気がつくと私の前にはせっせと薬を散布する妻の姿があった。その右腕を掴む。
「やめろ。どうして殺虫剤なんか買って来たんだ」
「忌避剤なんか意味がないでしょう。虫も雑草も根絶やしにするのが一番いいのよ」
妻は散布をやめようとしない。強引にその容器を奪い取る。しかしムダだった。ほとんど空になっていた。
「もううんざりだわ。半年前からこの家は呪われている。引っ越しましょう。マンションを買いましょう」
「その半年前に何があったか、君は本当に覚えてないのか」
「あなただって一週間前の朝食が何だったか覚えていないでしょう。そんな昔のことなんか忘れちゃったわ」
その言葉が偽りなのか本当なのか私には判断できなかった。怒りに満ちた表情のまま妻は縁側から居間へ上がった。私は庭に残って地面を見つめた。忘れたくても忘れられない記憶がよみがえる。半年前、そこに男の死体を埋めたのだ。
「脅されている?!」
妻から聞かされたのは衝撃の事実だった。知らぬ間に妻は万引きの常習犯になっていたのだ。田舎暮らしのストレスによるものだった。手口は巧妙で警備員に見つかったことは一度もなかったが、ある日、客の一人に見つかってしまった。
「ばらされたくなければ金を用意しな」
お決まりの展開だ。相手はネットカフェを住処にしている住所も職業も不定な男だった。
「でかい屋敷に住んでいるじゃねえか。これならたんまり払ってくれそうだな」
家に押しかけてきた男の不遜な態度は妻の神経を逆撫でし続けた。それが頂点に達した時、妻は男に掴みかかった。バランスを崩して倒れる男。その頭が庭石の角にぶつかりそのまま動かなくなった。一緒に倒れ込んだ妻も気を失った。
「お、おい、大丈夫か」
まず妻を居間に運んで寝かせた。次に男の体を揺り動かした。意識は戻らない。脈を取る。拍動は感じられない。瞳孔も開いている。呼吸もない。明らかに死んでいた。
「最悪だ」
それからの私の行動も最悪だった。男を庭に埋めたのだ。もし相手が家庭を持ち定職に就いているような人物なら警察に通報しただろう。しかしホームレスに近い暮らしをしているのなら行方不明になったとしても発覚する恐れはない、そう考えたのだ。
そしてその目論見は的中した。ニュースになることも警察が聞き込みにくることも近所でうわさになることもなかった。それまでの日常に何の変化も起きなかった。妻の情緒不安定が以前に増してひどくなったことを除けば。
「どうしてあたしはここに寝ているの」
居間で目覚めた妻は何も覚えていなかった。自分が万引きの常習犯だったことも男に脅されていたことも全てを忘れていた。庭に穴を掘って不要になった物を埋めるように、自分の意識に深い穴を掘って忌まわしい記憶を捨ててしまったのかもしれない。
いずれにしてもその日から妻の万引きは収まった。その代わり、この家を離れたい引っ越ししたいと毎日口にするようになった。
「穴の中の死体は地底人たちのおかげで骨も残さずに消滅した。しかし妻の意識の底に押し込まれた記憶は、きっとまだ残っているのだろうな……おや」
地面の上を数十匹のクロオオアリが歩いていく。その中の一匹が立ち止まってこちらを見上げた。直感でわかった。シツジだ。どうやら無事に巣から脱出できたらしい。何かを言いたげに触角を揺らしている。と、不意に食事中の会話を思い出した。
――しかし骨を使い尽くしてしまったのなら、もうここにいる意味はないんじゃないのかい。
――そうですね。新しい骨が欲しいところではあります。
ああ、そうだったのか。それが君たちの本当の目的だったのか。きっと彼らは何もかも知っていたに違いない。妻が脅されていたことも、死体を埋めたことも、半年前から険悪な仲になったことも。全てを知っていて私を招待したのだ。新しい骨を得るために。
「そうだな。妻の親族には家を出たまま戻って来ないと言えばいい。半年で骨まで消滅するのなら犯行が発覚する恐れはない。もし警察に疑われたとしても地表の生活を捨てて蟻たちと一緒に暮らせばいいのだ。口やかましい妻と人生を送るよりそっちのほうがよっぽど幸せではないか」
私は居間に上がると妻の背後に無言で近づいた。そう、終末はいつも突然やって来るのだ。
足下のご当地自慢 沢田和早 @123456789
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