侵入者に連れられて侵入した別天地
「ようこそおいでくださいました」
目を閉じた私の耳に聞こえてきたのは先ほどの穏やかで品のある声だった。目を開くと黒いスーツを身にまとった初老の男性が立っている。
「ここはどこだ。君は何者だ。何が起こったんだ」
「ここは地面の下、私たちが運営する景勝地のひとつです。私はさきほど穴の近くであなた様に話し掛けた蟻です。あなた様は体を縮小されて蟻の巣に招かれたのです」
矢継ぎ早に繰り出した私の質問に丁寧に答える男性。しかしその回答の全ては到底信じられるものではなかった。
穴の中に招かれたと言っても頭の上には青空が広がっている。周囲にあるのは土ではなく草原で遠くには山や森が見える。そして目の前に立っているのは蟻ではなく人間の姿をした男性だ。
「悪ふざけはよしてくれないか。地面の下に空や山や森があるわけないだろう。しかも蟻? その姿のどこが蟻なんだ。すぐにわかるウソをついたりして何を企んでいるんだ」
「お疑いはごもっとも。ならばこれでどうです」
男が軽く右手を振った。たちまち周囲から明るさが消えた。同時に空も山も森も消え、視界に入るのはむきだしの土の壁だけになった。そして目の前には巨大なオオクロアリが立っている。
「こ、こんなことが」
まるで悪夢を見せられているような気分だ。いや実はこれは夢なのではないか。庭で立ちくらみを起こして気を失った自分が見ている夢にすぎないのではないか。
「夢ではありませんよ。頬をつねってごらんなさい」
言われるままにつねってみた。痛かった。ならば現実なのか。
目の前のオオクロアリが右前肢を軽く振った。たちまち周囲には元の光景がよみがえり蟻は男の姿に戻った。呆然とする私に男が言った。
「立ち話はこれくらいにしてあの茶房で少し休みませんか。美味しいお茶とお菓子を御馳走しますよ。ああ言い遅れました。私は案内役のシツジと申します。以後よろしく」
見れば少し離れた場所に二階建ての洒落た洋館が立っている。もはや驚きの感情すら湧いてこない。シツジに誘われるままにその茶房へ向かった。
「お味はいかがですか」
「悪くない」
見晴らしの良い二階窓際の席でカップに注がれた液体を飲む。味も香りもコーヒーにそっくりだ。
「コーヒー豆なんかどうやって手に入れたんだ」
「それはコーヒーではありません。たんぽぽの根を乾燥させて作ったたんぽぽ茶です。あなた様のお庭にはたんぽぽがたくさん生えておりますので使わせていただきました」
「この菓子も美味いな。どうやって作ったんだ」
「時々恵んでくださるパンくずと砂糖を使わせていただきました。気に入っていただけて何よりです」
お茶と菓子のおかげで冷静さが戻ってきた。にこやかな笑顔を浮かべるシツジも、窓から見える草原の風景も、洗練された装飾品が施された茶房の店内も、全てが現実だと受け入れることに抵抗を感じなくなってきている。
「シツジ、さっき君は自分は蟻だと言った。だが、ただの蟻ではないな」
「はい。実は私は地底人なのです」
そこからシツジの長い話が始まった。地底人の彼らにとって地表の世界は常に憧れだった。それはちょうど地表に住む我々が空の向こうに広がる宇宙に憧れるのと同じようなものだったのだろう。
発達した文明によって地表の光景が詳細になるにつれその憧れはさらに大きくなった。壮大で色彩豊かな自然。多種多様な生物。意匠を凝らした建造物。地底人は誰もが地表へ行きそこで暮らしたいと思った。
しかしそれは不可能だった。夜間でも微量に存在している太陽からの紫外線。あまりにも濃厚な大気中の酸素濃度。地底人が生きていくには地表の環境はあまりにも厳し過ぎた。それは地表に住む我々が宇宙では生存できないのと同じようなものだった。
「ならば地表を楽しめる場所を作ろう」
そうして始まったのが地表景勝地の建設である。地表近くに蟻の巣を擬態して地表の景色を楽しめる施設を幾つも作り始めたのだ。
もちろん実際に森や山を作るわけではない。そのような景色が見える装置を設置しているだけなのである。地底人の科学技術力は地表の我々にはとても追いつけないほどに発達しているので、それくらいのことは朝飯前だったようだ。
「地表の景色を見せているって、つまり三次元の立体映像みたいなものなのかい」
「いいえ。脳に直接働きかけています。脳は見たままを知覚しているわけではありません。網膜には倒立した景色が映っているはずなのに勝手に正立像に修正していますし、網膜は曲面なので平面も曲がって映っているはずなの勝手に平面に修正しています。それと同じ理屈で土だらけの光景を地表の風景に修正して脳に認識させているのです」
「じゃあ君たち地底人の本当の姿はどっちなんだい。蟻、それとも人間?」
「どちらでもありません。しかし今は蟻の姿が真実です。地表で活動するときは防護服が必要になります。それを装着した状態が蟻の姿なのです。例えるなら地表人が宇宙服を身に着けた状態、それが蟻の姿になるわけです。今はあなた様のために巣の中を地表と同じ酸素濃度にしているので防護服を装着した蟻の姿になっています。防護服を脱いだ姿は、そうですね、わりと人間に近いですかね。それでも地表人たちにとっては奇異な姿に感じられると思われますので人間の姿に修正して見せているのです」
それなりに気を遣ってくれているわけか。ずいぶん親切だな。
「見掛けは修正できても大きさや重さはどうなっているんだい。巣の中にいるわけだから私の体も蟻の大きさに縮小されているんだろう」
「それを説明して理解できますかどうか」
と言いながらも一応説明してくれた。確かに理解不能だった。物質を複素変換する技術を用いて実の部分と虚の部分に分割し、物質の大部分を虚の因子に移して虚空間に送り込むのだそうだ。例えば元の物質に対して実物質を1割、虚物質を9割に分割すれば、実空間での大きさや質量は元の1割になる、という原理らしい。地底人の科学力はもはや魔術に匹敵するような代物だと感じずにはいられなかった。
「他に質問はありますか」
「いや、これ以上はもういい。ありがとう」
訊きたいことは山ほどあったが説明されても理解できないのなら時間のムダでしかない。そういうものだと受け入れるしかないだろう。
「さて、それでは景勝地巡りに出掛けましょう。地表を真似て作った風景ではありますが、滅多にみられない絶景を楽しめるはずですよ」
シツジはにこやかに笑うと左手を振った。二階の窓から「ご当地巡回車」と書かれた一台の自動車が止まるのが見えた。
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