足下のご当地自慢
沢田和早
一寸の蟻にも五分の魂
「いやあー!」
週末の昼前、まるで世界の終末が訪れたかのような妻の悲鳴が居間から聞こえてきた。廊下に出て声を掛ける。
「どうした」
「蟻がいる! 行列を作っている! 噛まれる!」
蟻なんて今に始まったことじゃないだろうと思いながら居間へ向かう。祖父の代から住んでいるこの家は築60年。水回りを一度リフォームしただけでその他は昭和の遺物となり果てているボロ家なのだから蟻が入り込むのも仕方ない。
「蟻はどこだ」
「そこ」
妻が指差す畳を見ても蟻の行列らしきものは見当たらない。
「いないじゃないか」
「いるわよ。よく見て」
しゃがみ込んでよく見ると一匹のクロオオアリがちょこまかと歩き回っている。少々呆れながら指で摘み、縁側から庭に逃がしてやった。
「何が行列だよ。たった一匹じゃないか。おおげさだな」
「一匹なら行列とは呼べないって言うの? 線形代数では一行一列だって行列と呼ぶでしょう。全然おおげさじゃないわ」
また妻の屁理屈が始まった。付き合い始めた頃は知的に思えていた口上手も、最近は煩わしい揚げ足取りにしか思えなくなってきた。反論すると泥沼にはまり込むので取り合わずに話を逸らす。
「蟻は益虫だって何度も言っているだろう。砂糖や菓子クズだけじゃなく植物の害虫なんかもエサにしている。それに今そこを這い回っていたクロオオアリは木造家屋最大の敵であるシロアリも捕食する。ろくにシロアリ対策もしていないのにこのボロ屋敷が今日まで無事に立っていられるのは蟻たちのおかげと言ってもいいくらいだ」
「でも噛むでしょ。テレビで言ってた。噛まれてショック死する殺人アリに注意しろって」
「それはヒアリだ。外国の蟻だから滅多に出現しない。普通の蟻ならこちらから手を出さなければ噛んだりしないし噛まれてもたいしたことはない」
「やっぱり噛むんじゃない。ああもう、こんな家イヤ。虫や蛇やネズミに振り回されるのはうんざり。街中に引っ越しましょう。マンションを買いましょう。この家は呪われているのよ。最近半年間は特にひどい。田舎暮らしの呪いがこの家に取り憑いている。あたしにはわかるの、これ以上ここで暮らしたら恐ろしいことが起こるって」
「やれやれ」
呆れて愚痴も出て来ない。知的なくせにオカルトや迷信には簡単にはまってしまう。妻の悪い癖だ。
「決めた。この機会に害虫を一斉に駆除してやる」
妻が居間を出ていく。きっとホームセンターで殺虫剤でも購入するつもりなのだろう。もちろん行かせるわけにはいかない。
「待て。さっきも言ったように蟻は益虫だ。それを根絶やしにしてしまうなんて、それこそこの家にとっての災いだ」
「だったらなおのこと都合がいいじゃない。災いのある家なんて捨てて街中のマンションで暮らしましょう」
「そんな金銭的余裕がどこにあるんだ。考え直せ」
「絶対にイヤ。この半年間ずっと考えてきたんだから。虫が侵入する家なんかで生活したくない」
「そうか……」
同じようなことはこれまで何度もあった。そのたびに説得して思い留まらせてきた。だが今回は意志が固そうだ。いつも出没するヒメアリではなく今日は大型のクロオオアリだったことがその原因だろう。あれだけ大きいと心理的脅威は数倍になったはず。妻の気持ちはわからないでもない。
「わかった。そこまで言うのなら好きにすればいい。だがお願いがある」
譲歩する代わりに条件を出した。購入するのは殺虫剤ではなく忌避剤にすること。蟻を見つけても無闇に殺したりしないこと。蟻が入り込まないように少なくとも夏の間は掃除を念入りにすること。
「掃除はいつだって入念にやってるわよ」
最後の条件はすでに達成されているようだ。一言多かったと反省する。
「ここの暮らし、都会育ちのお嬢さんにはツライのかな」
妻が外出してしまうと縁側に出て庭を眺めた。元々田舎嫌いな性格ではあった。結婚後、実家で生活すると決めたときも大反対された。しかし経済的な理由と両親が他界して住む者がいなくなった家を放っておけないという理由から渋々ここでの生活を承知してくれたのだ。
「あいつのイライラはこの半年でますますひどくなってしまった」
庭に降りてしゃがみ込み地面を眺めた。盛り上がった土、その頂点部に開いた穴。そこから出入りするクロオオアリ。この巣を見つけたのは半年前の2月ごろだ。通常、女王アリの移動は初夏に行われるので奇妙に感じたのを覚えている。
「よく働くなあ、おまえたちは」
数年前に親の遺産を相続したのを機に会社勤めを辞めてしまった自分に比べて、この蟻たちのなんと勤勉なことか。その健気さに応えてやりたくて氷砂糖やパンくずなどを庭に置いたりしたこともある。もちろん妻には内緒だ。いやあるいはすでに気づいているのかもしれない。それが最近の情緒不安定の原因になっているのだろう。
「ふふふ、気になるのかい」
一匹のオオクロアリが立ち止まってこちらを見上げている。その複眼の瞳に人間はどのように映っているのだろう。警戒すべき巨大な敵? それとも単なる大きなエサ程度の認識なのだろうか。
(やはりあなた様は想像どおりのお方のようです)
「誰だ」
声が聞こえた。穏やかで品のある男性の声。立ち上がって庭を見回す。誰もいない。開け放しの縁側から見える居間にも人影はない。
「空耳か。どうやら妻の情緒不安定が伝染したみたいだな」
(いいえ、空耳ではありません。喋っているのは私です)
今度ははっきりと声の主がわかった。そしてそれは信じられない相手だった。再びしゃがみ込んで穴の近くで立ち止まっているオオクロアリを見つめる。
「まさか……おまえが」
(そうです。喋っているのはあなた様の足元にいる蟻です。この半年間あなた様は私どもを暖かく見守ってくれました。本日はそのお礼をしたいと思います)
「うわあ!」
周囲の景色が上昇を開始した。庭の立木も、縁側の下にある踏石も、最近花をつけたオニアザミも、全てが天に向かって移動していく。
いや、違う。動いているのは自分自身だ。まるで飛行機から落とされたかのように私の体は地面に向かって下降しているのだ。何もかもが上方にある。そしてその大きさは巨大になっていく。急変する光景をこれ以上見ていられない。私は目を閉じた。
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