幻想の証明の朝

 愛や希望、夢とかいう言葉と、ご飯とかセックスやもう寝るねという言葉が同じ温度で語られることがとても嬉しかった。日に干した洗濯物の匂いと、一人暮らしの男の部屋の臭いが同じだと言っているのと同じことだと思った。要するに、女にとっての日常とは、その程度に雑然として然るべきものなのだ。


「ちょっと出てくるね」

「うん」


 ——実はね、知り合いだったんだよ。


 猫の死と少女の死が同じように語られるのだけは癪だった。猫なんてありふれている。どこにでもいる。どうせすぐに死ぬ。それと彼女を同じように語るのは、愛や希望と食事とを同じように語るのとはまるで違うことだと、わかっていない。


「私が死んだからって悲しむことはないのに。すぐに消えてしまうなら、私は死んだりなんてしないから。死んでないのと同じこと。ずっと残るなら、それもやっぱり死んでないのと同じこと。だから私は永遠に死とは無縁なんだよ」


 女は淵を覗き込んだ。自分の姿しか映らない。少女はその長い眠りの向こうに何を求めたのだろう。疑問は暗い水底に沈み、すぐに何を考えていたのか忘れた。


「すぐに消えてしまうよ。だって、ほら。もう何を考えていたのか忘れちゃった」

「でも、もし私が生きていたとしたら? その方がずっと忘れやすいものになったかもしれない。どこかで生きているだろうという安心感って、人間的な優しさを損なわせるような力があるよね」

「確かに、それは否定できないかもね」

「おばさん、誰と話してるの?」


 まるで露に濡れた葉の上で踊るかのように、少女が平たい岩の上で舞う姿は、妖精と見紛うかのごとき美しさだった。靴は泥に汚れていた。雨に雲に夜を隠して、常に昼を持ち歩く者の輝き、もし憂鬱が雨になるなら、少女は喜びだけで編んだ空を自分の所有物にしてしまったのだ。

 憂鬱は、どこか別の場所で雨を降らしているのだろう。急に日が差し、空への明るい道が開けた。少女を照らすスポットライトのように見えた。だが、少女はすぐにその光に吸い込まれてしまうような気がした。あわてて手を伸ばしたが、少女からは少し遠かった。


「誰って、誰だろうね。君には見えないんだろうね」

「なにそれ、変なの」


 妖精は駆けていくと、母親に抱きついてから、女に向かって手を振った。柄にもなく女は微笑み、手を振り返した。ふたりは去った。

 紙パックや缶ジュースは減った。誰かが片付けている。こうして日常は保たれている。見えるもの、見えていないもの、届くもの、届かないもの。そのすべてに手を伸ばすことなど、どうしたって無理なんだと、今更ながら学ぶ。

 花を手向けると、女もその場を後にした。


「おかえり。早かったね」

「え?」

「だって、あそこに行ったんでしょう?」


 女はもうひとりの女を見た。シワだらけの顔は、彼女がかつて少女だったことをもはや想像できないほど醜くしているのに、どこか懐かしい気がした。


「なんだ、知ってたんだね」

「だって、何年一緒にいると思ってるの」

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