雪の情景、雨の情景

 澄んだ朝。

 色の消えた世界に足を踏み出すと、ギュッと雪を踏む音だけが聞こえた。息が白い。この時期としては異例の積雪で、前日から懸念されていたように、電車が止まった。正確には、懸念されていた、ではなく、女が望んでいたように、だ。天気予報では数センチの積雪といわれていたが、十センチは超えている。

 街は静まりかえっていた。電車が動かなければ、どこの会社も休みにせざるを得ない。こんな寒い日に外に出ようなどと酔狂な者もそういない。雪が音を吸う。静寂が約束された朝ほど快いものはない。

 女はひとり、まだ誰も踏んでいない柔らかな雪をすくいあげると、階段の下へと投げ落とした。柔らかいままの雪は、花びらのように揺れながらゆっくり落ちた。




「ごめん、待てなかった。動かないって、やっぱりつらいよね」

「うん。気にしなくて平気。いつかそうなるとは思っていたから」


 ――平気? なにが平気なの?


 図書館を辞し、会社勤めに変えた。最初は慣れない仕事も楽ではなかったが、単調で変わり映えのしない毎日に飽きがきた。

 数、名前、時間。

 管理すべきものは図書館でも会社でも同じだった。ディスプレイに表示される数字と名前を眺めながら、ありとあらゆるものが脳内で均質にならされていくのを、漠然とずっと感じていた。標準化、平準化、その先にあるのは個の完全な剥奪だ。


「綺麗な音」


 カンッと高い音を窓の外に聞くと、思わずそんな言葉が漏れた。一年以上一緒に働いていて、ほとんど言葉も交わしたことのなかった青年。手にしていた本から視線を外し、こちらを見た。


「ホントだ」


 二十二階のオフィスから見下ろす川は小さく、川辺にたたずむ鷺は、白い泡のようだった。

 飛んですぐ、どこかに消えてしまう。鵜は群れをなし、下流から上流へ、水面すれすれをのぼっていく。橋の手前で一斉に着水すると、網を張るように川全体を塞いだ。下流に流れる魚には、どこにも逃げ道はないのに、鵜にとってそこは単なる餌場に過ぎない。空に、いるべき場所はいくらでもある。鳥は自由の象徴。だが、飛ぶ鵜の姿は、首をまえに伸ばし、両の翼をばたつかせ、必死で、苦しそうだった。自由だって、楽ではないのだ。


 ――どこもかしこも。




 新雪を踏みながらコンビニまで歩いた。靴が濡れた。学生の頃に吸っていたのと同じ銘柄は、そこにはなかった。


「四十二番で」


 女は自分の年齢の番号で適当な煙草を買った。ライターと温かい缶コーヒー、新聞も買った。

 六時半、復旧の目途は立っていません、とのこと。出社の可否は安全第一、自己判断。こんな透き通った日にオフィスに閉じ込められるのは余りに危険だと判断したため、本日は出社いたしません。

 公園のベンチに積もった雪をどかし、新聞紙を敷いたうえに座った。それでも冷たい。コーヒーが冷める前に、三口ほど飲み、煙草に火をつけた。白い煙がのぼった。


 ――ああ、冴えた空。

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