春の日

「いつもすまんね」

「いいんですよ。お互い様ですから。なんでも言ってくださいね」


 老人のところには、週三度、地域支援員と呼ばれるボランティアが訪れる。地域支援員の大部分もまた老人と同じ高齢者だが、一回りか二回りは若い。とはいっても、団地の三階を階段でのぼるのはつらい。時々は老人の方からおり、公園で話をした。桜の季節は特に何度も外に出た。他の老人も出るが、階があがるにつれ、率は下がる。五階の人が最も少なく、一階の人が最も多い。春になるとベランダに舞い込む花びらだけでは満足いかない。老人たちが求めているのは、太陽のしたで薄らいでいくあわい桜の花びらのはかなげな色だ。透けた白は血の気がない。桜の下には死体が埋まっているというのはこの色のせいだろうか。老人は何度か読んだことのある梶井基次郎の文章を思い出した。


『水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。』


 腐乱した肉体に透明な輝きなど宿っているのか、と老人は思う。否、そんなわけがない。人間、腐ったら土に還るだけだ。黒い土になる。九相図の如く朽ちる。美しいわけがない。肉体など無意味だ。とりわけ、老いた肉体など。皺だらけで、垢だらけで、ほとんど骨と皮になったそれに、爛々と光る魂が宿るなんて幻想に過ぎない。


「綺麗ですね」

「はい」


 誰からともなく嘆息が漏れ、それもやがて溜め息に変わる。はかない桜の花びらに、忍び寄る死の気配を感じるのは老人だけではない。誰もが思い返す。自分の人生は、これほどまでに無垢で、美しいものだっただろうか、これほどまでに容易く、はらはらと散っていくのだろうか、と。


 人生は短い。


「珍しいですね。今日は三号棟の一階の、えーと、彼女、なんて言ったかな」

「ああ。彼女ですね。彼女は先日……」

「そうですか。いつだったか、彼女が海で見た青い光の話をしてくれましたよ」


 老人は窓際に座る。春の風に鼻をむずつかせても、柔らかな日差しを、ぬくい空気を肌に感じたかった。からだが冷えても、ツンとした冬の空気に震えたかった。夏の日、秋の日。季節がめぐるたび、これが最期という思いでその時々を見た。美しかった。終わるのは惜しかった。生が最も鮮烈な輝きを放つのは死の間際。星の死と同じじゃないか。超新星のようにまばゆい輝きを。


 ――末期の眼、というやつか。幻想だ。


〈あら、あなた。気取ったことを言うのね〉

「そうか? ただ、いつもよりずっと綺麗に見えたから、そう思ったまでだよ」

〈フフフ。でも、今日を最期にするつもりなんてないでしょう?〉

「どうだろう。それも悪くないとは思うんだが」


 老人はベランダの日だまりに立った。ひとりで乗り越える力はまだあるが、誰かが手を差し伸べた。その温もりは春の日差しに似ていた。


「ありがとう。世話になったよ」

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