朦朧
「また、やっちまったよ」
「これで何度目? 簡単なことでしょう」
――わかってる。飲まなければ良いんだ。一口目がいけない。わかってるんだ。
ビールジョッキが前に置かれた時から男は罪悪感に苛まれ、喉につかえる気持ち悪さを飲み込むようにジョッキをあおる。水滴がコースターを濡らし、底についたまま浮き上がってから、ポロッと落ちた。のどを通る爽快な感覚が罪の意識を一瞬にして忘れさせる。悪循環のはじまりはいつだって一口目だ。酔いが足りずに、次第に罪悪感がむくむくと膨れ上がっていく。腹の内で弾ける泡の中に悪が隠されていたかのように、ふつふつと音を立てながら内側で醜く太っていく。その罪悪感を消すために、いつだって二口目が必要になるのだ。
――最初の一口目。飲んではいけない。飲んではいけない。飲んではいけない。
「落ちましたよ」
ひとつあけてカウンターに座る女が塗れたコースターを拾い上げた。テーブルに置くと、長い髪をかきあげた。陰鬱そうな一重まぶたの下で暗い瞳が光ると、そこにはウイスキーのようなとろりとした色味を隠されていた。一瞬で理解した。男と同じように、罪悪感から逃れるために飲んでいる。逃れられない袋小路と知りながらも、自ら陥穽にはまってしまう。他人に自分の愚かさを見出し、おもわず男は苦笑した。
「ああ、すみません。ありがとう」
「……いえ、お気になさらず」
女は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべ、視線を交わしてからすぐに酒に手を伸ばした。不審に思ったか、あるいは同じ瞳を男にも見たのか。愚かであっても、傷を舐め合うようなことはしなかった。陰鬱さは重なり合ってより質量を増し、重みで互いに身動きが取れなくなってしまう。
シミだらけの品書きを見て、長きにわたって取り替えられることなく使われているのだと思った。店員を呼び、いつもは飲まないウイスキーを頼んだ。
「ねえ、聞いてる。これで何度目?」
――わかってる。一口目がいけない。
「ああ、すまなかった」
息子は来年小学生にあがる。
稼ぎが少ないわけではなかった。毎週金曜の夜は帰らず、そのうえ土日は競馬場に入り浸っていた。財布を妻が握らない限りは終わらないが、働きに出ていない妻が頼れるのは男の収入だけだとわかっていたからこそ、男はいつまでも強気でいられた。自分が妻子を捨てることがあっても、自分が捨てられることはない、と。
「私、仕事見つけてきたから」
これまでの総決算となる言葉。それで十分だった。
親権、慰謝料、財産分与、養育費。アルコール依存、ギャンブル依存、不貞行為。男に勝ち目はないだけでなく、はなから争う気などなかった。
突き尽きられた三下り半をあっさり飲みこみ、なにもかも捨ててしまった。捨ててしまって気づいた。男はまだ、家族にすらなれていなかったのだ。
「あなたの息子さんは、どちらですか?」
隣の若い男が対抗心をむき出しにして、怒気を孕む声でいった。ようやく男は自分が無礼を働いたことに気がついた。
日曜日、近所の小学校の校庭でサッカーをする子どもたちを見ていた。息子にやらせるつもりだった。やらせるための金をすべて自分で飲んでしまった。くだを巻くのは酔っているからではなかった。
「いや、すみません」
慌てて頭をさげると、男は逃げるようにその場を後にした。
罪悪感を抱くことがなくなった。罪悪感を抱く対象がいなくなったからだ。自己嫌悪もほとんどない。自己嫌悪を感じる意味すらないからだ。
空虚な行為の連続のあいまの埋め方もわからず途方に暮れていた。罪悪感も自己嫌悪もないのに、酒を飲む理由などない。少年たちに自分の息子を重ねて罪の意識が蘇るのを期待していたのだろうか。どうせそこに息子はいないのに。
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