十月から逃げ続ける方法
――うだうだ言ってねえでよ、って自分でも思うけどよ。
蝉の声がやんだ。エアコンの風が首筋に吹きつけ、寒気を感じた。外はまだ暑いのに、設定温度が低過ぎたのだろうか。まだ彼岸も過ぎていないのだから、寒くなるはずはなかった。
「来週末って、なにか用事ある?」
ある九月の朝。
男は鏡に向かって語りかけた。似たような状況にある友人に対しては好き勝手いうわりに、自分のこととなると一歩を踏み出すことは簡単ではなかった。
つまらない。始まる前から終わることを考えている。すべてが終わるからといって無意味ではないのだ、と自分に言い聞かせようとするが、喉が渇く。九月、朝、蝉が再び一斉に鳴き出した。まるで男を嘲笑っているかのようだった。
――くそっ。九月がなんだってんだ。
「近くに小学校があるので、その分だけほんの少しお安くなっているんですよ」
不動産屋の営業がいった。夏休みのあいだも子供の声が絶えず聞こえ、二学期が始まれば当然平日昼間は騒々しい。日中は仕事で出ている。問題は週末で、必ず野球かサッカーの試合が行われているため、子供の甲高い声に加え、保護者と思しき野太い声も混じっていた。
ワイシャツの第一ボタンをとめるべきかはずすべきか考えあぐねた結果、最終的にカジュアルなTシャツにしようとあらためた。髪型は大丈夫。髭も綺麗に剃った。今から家を出たところで一時間以上も前に待ち合わせの場所に到着する。
男は靴を履いた。
「馬鹿なの? デートをオッケーした時点で、ほぼ決まってるからね」
昨晩に降った雨でアスファルトは濡れ、水たまりも残っていた。表面に映りこんだ空が青い。仰ぎ見ると、二重の虹が空にかかっていた。
渋谷行きの電車は混んでいた。平日の朝とは違う顔ぶれで、特に女性が多かった。華やかな化粧と服装。彩り豊かな装いは、動物園で見た南国の鳥や魚を思わせた。
「馬鹿なの? 鳥ってのは大抵、オスが派手な色してるってもんでしょ」
くされ縁だった。高校からの付き合いで、もう十年以上になる。ふたりとも吹奏楽部で好きなスポーツはサッカーというアンバランスで意気投合した。「吹奏楽部と言えば野球が好きってのが定番だろ」と周囲は笑い、ふたりも笑った。時々等々力に観戦しに行った。サッカーはふたりの結びつきを一層強いものにした。
――最近、会ってないな。
女を頻繁に思い出すのは、会っていないせいだと思った。
男は恋をするたび、女に相談をした。相談するたび、もやもやと胸を漂う曖昧模糊とした感触を確かめた。それが自分の恋愛の証明。そう思っていたはずなのに、なぜか女がいつもいう憎まれ口ばかりが頭に浮かんだ。今から会いに行く、約束をとりつけた彼女とはまるで違うタイプだ。粗野で、横柄で、気の置けない……。
――今からデートだっていうのに、なんてあいつのことばっか考えてるんだろ。
「来月、転勤することになったから。福岡。栄転だよ。祝福してね」
「まじか、すげえじゃん! 良かったな」
――あれ?
転勤。いなくなる。九月と一緒に女は遠くにいく。十月がそろりそろりと近づいてくる。蛇のようにまきついて、冷たい感触で、男の首を絞めつけた。
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