切れないままの紐の
「持って行ってください」
渡されたのは紐だ。お守り代わりだという。足首に巻くのが当世の流行りだという。男は、綯い交ぜになった過去と今のはざまに溺れそうになる。孫が誰からか貰ったというミサンガを足首に巻いていた。切れるまでつけていると望みが叶うという。望みはなにかと訊いたが、じいちゃんには関係ないだろうと一蹴された。さすが、サッカーやってるだけある、とくだらない冗談を思いついて苦笑する。
記憶を混同することが増えていた。過去だけは確かだと思っていた。今が記憶を変えてしまうのであれば、その過去だって確かではないのだと知った。知りながらも、すがりたくなるのは、あの時間こそが男にとっての青春だったからだろう。
紐はお気に入りの帯締めを解いて作ったという。互いに死を覚悟していた。男は死ぬつもりだった、少女も生きて帰ってくるなどという期待は持たなかった。短い人生を鮮やかに彩るための深海のような色。それを背景にして、玉砕という刹那の輝きが明瞭なコントラストを生みだす。その程度の軽薄な考えだった。死を美化してみたところで、待ち受けるのは完全なる無だけだ。今でも無がなにかもわからなかったが、美化そのものは生きている人間だけに意味があるということくらいは容易くわかる。かつての少年少女の想像におよばなかった。
こたつのなかは暑すぎるのか、猫はいつも男の腹のうえに乗る。コタツの熱と人の体温のちょうどあいだの心地良さがそこにはある。金属的な鋭い熱と、有機的な柔らかな熱。どちらかだけではいけない。猫の贅沢が、男にもわかる気がした。
拍子抜けした。
戦地に赴く前に終戦をむかえ、帰れば少女はもうそこにはいなかった。約束を反故にされた。戦時に戦争とは無関係に死んだ人たちは、戦死として数えられることはないのだろうか。意味のある死の溢れていた時代、死を美しく彩る欺瞞が常だった時代に国とは無関係に死んでしまった彼女を、男は何度か羨んだ。欺瞞を剥いだ死、国のためにならない死は、女の裸のようになまめかしい美があるはずだ。なにも被らない死を選ぶ。そんな子供じみた幻想に、何度か心をとらえられそうにもなった。くだらない、と自ら一蹴した。サッカーでもやってみるか、と苦笑したはずの自分の考えに、なぜかこだわっていた。
「じいちゃん、なにしてんの。もしかして、サッカーやりたいの?」
勝手にボールを持ち出し、家の裏で転がしているのを孫に見られた。男は年甲斐もなくほほをほのかに染めた。
「教えてあげるよ」
孫はスカートを脱ぐと、縁側に置いた。したに履いていたハーフパンツの藍色の紐を締めなおし、足の裏でボールを転がしたかと思えば、爪先をくいっと返してすくいあげた。
「これ、リフティングっていうんだよ」
足首に巻かれたミサンガはまだ切れていない。それを初めて見たのは半年ほどまえのことだろうか。今なら聞いても良いかもしれない。
少女の真似をしてボールを転がしてみるが、うまくいかない。あの紐は、どうしただろう。
「言われたんだよ。引退するまで待っていてくださいって。もちろん、男に」
待っていてください、か。なるほどな。と男は思った。
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