彼だけが知っていたのに

「空ってなんで青いの」


「そりゃ決まってんだろ、青い絵の具が一番安いからだよ」


 少年は嘘つきでな叔父を嫌いにはなれなかった。昨日と今日とでいっていることが違うことなどしょっちゅうなのに、馬鹿げた言葉の背後の荒唐無稽だけは断固として一貫している。頑固な人だと思っていた。


 ――おじさんだけが、ユーモアを持っている。


 叔父いわく、ユーモアとは、短い毛の生えた、晩夏に売れ残った西瓜のような哀愁を持つ、丸くて小さな、かよわき生き物だとか。青梅市と入間市の都県境に沿って多く生息し、涙を舐めて生きているから、人はそれを嫌って笑うのだとか。少しだけ、ゆがんだ顔で。

 少年は実際、ユーモアを何度か見せてもらった記憶がある。小さい頃の記憶だ。柔らかいのかと思ったが、短い毛は案外ごわごわとしていて、束子のようだと思った。なんとなく雀に似ているとも思った。思い返してみれば実際、あれは束子だったのかもしれない。

 と、少し大きくなった少年は思う。小さいけれど、かよわいというのは嘘だ。


「空って、絵の具やペンキかなにかで塗ったの?」


 また、嘘だ。あんなに大きな空を絵の具で塗れる訳が無いじゃないか。もし誰かが塗ったのだとしたら、朝や夕や夜に色が変わるわけがないじゃないか。

 クスッと少年は笑った。叔父は不服だといわんばかりにふんと鼻をならしてから、少年の頭をぐしゃぐしゃっと乱暴に撫で回した。少し痛かった。


「誰も塗ってないなら、いつだって白いはずだろう」


「じゃあさ、誰が塗ったの?」


「……まあ、塗装屋だろうよ。空にも専門の職人ってのがいてよ、人間と一緒だ。働かざる者食うべからず」


 日曜の試合を観に来ると言っていたはずの叔父が来なかったのが、少年の気掛かりだった。父は、あいつはなやつだから、と取り合ってくれなかった。でも、少年との約束を破ったことは一度だってなかったのに。


 雨。


 シュート。


 ゴール。


 ボールはふわりとネットに触れて、ぽとりと落ちた。ホイッスルが鳴り、試合が終わり、少年のチームは勝利した。




『トソウヤって何? 絵具を売っているブンボウグヤと同じもの? なんで夕方はオレンジ色なの。太陽はどうして白いの。昼にはどうして星がないの。夜空には穴があいてるってホント? ねえ、おじさん、おじさん、おじさん——』


 夜中に目が覚めた。

 夢を見た。

 叔父とは二度と会うことがなかった。




「馬鹿じゃねえの。空は青いから青いんだよ。絵具とか関係ねえし」


「じゃあ嘘ついたって言うのかよ!」


『喧嘩でグーで顔を殴るのは反則だ。顔は平手打ち、パーだけ。チョキもダメ。グーで殴って良いのは男のお腹だけ』


 ――ああ、やっぱりおじさんってだ。


 同級生の拳が顔に飛んできた瞬間、空が青い理由なんてどうでも良いと思った。ランドセルの中身を廊下にばらまかれた。

 国語の教科書が廊下に散った液体で濡れていた。汚い。誰かが給食をこぼしたのか、バケツをひっくり返したのだろう。顔を近づけてみると、鯉の池に落ちた時と似た臭いがした。悔しさに唇を噛み締めると鉄の苦味がじんわり舌先ににじんだ。




「おじさんは、どうして死んだの?」


 ――おじさん以外の大人はなにも教えてくれない。


『お前だって、いつかはどうせそういう大人になるんだから。おじさんの言葉じゃなくって、そういう大人のこともちょっとは信じてやれよ』


 叔父の言う通りだ。父や母の言うことのほうが真っ当だとすぐにわかる年齢になった。なのに、ずっと叔父からの言葉ばかりを求めていた。


「どうしてだろうな。お父さんにもわからないよ。人は、いつか死ぬんだろうな」


「じゃあ、僕も死ぬの?」


「ああ、死ぬよ」


 その日も空は青かった。なんとなく、明日も青いだろうと思った。そうして続く青の向こうで、叔父とまた会う日などないと、気づいていたのかもしれない。

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