こぬか雨と緑の陰影

 踏切のけたたましい警報音が鳴り響くなか、ホームに滑り込んだ電車は一寸の狂いもなく停車位置ぴったり動きを止め、息を吐き出すようにシューと音を立てて重たいドアを開けた。

 一つの乗車口に二、三人しか並んではいないが、朝六時発の電車にしては混雑している。運良く座れれば快速で東京まで出るが、空席がなければ次の駅で各駅に乗り換える。朝から数十分立って通勤するだけで、一日に必要な体力の大部分が削がれる。となれば、今日の仕事に差し支える。

 空席はなかった。先頭車両の運転席側のガラスを背にもたれかかると、車両の反対側の扉までの間に五人ほど立っている乗客がいた。速度を上げた電車がゆるやかなカーブに差し掛かると、一糸乱れず吊り革が慣性に従って傾いていた。天井から吹きつけるエアコンの黴臭さが鼻をつく。日の出の時刻は過ぎていたが、灰色の雲に覆われた空のせいか、車内には湿り気を帯びた夜の残滓が漂っていた。

 電車が停車し、降りようとするとドアの前に男がふたり立ち塞がった。快速電車で快適な立ち位置を確保するためにはいちはやく電車に乗り込みたいのだろう。男二人にはさまれる形で肩をかすめて降車し、向かいの乗車位置に並んだ。

 線路を挟んで対岸のホームには、いつも見る四十がらみの中年男が立っている。天気にあらがうような青いポロシャツが憎たらしい。

 理由のわからない苛立ちが女の腹の底で疼いていた。

 日の照る暑い日が続いていたが、灰色の雲の垂れる陰鬱な空がにわかに戻ってきた。今年は梅雨明けが早い、と思っていたばかりなのに、案外あっさりと覆された。電車内には傘を手に、床を濡らすサラリーマンと、わずかに学生の姿もあった。快速と違って空いていた。空席があるのに座らない乗客もいた。途中で駅前に畑の広がる殺風景な駅で停車した。快走が通り過ぎるのを待つ。ホームドアもまだ設置されていない駅は、都内の駅と比べて古い印象を受けた。

 毎日目にする光景を小糠雨が霞め、その奥に濃い緑色と黒の陰影が背景を塗りつぶしている。雑木林の樹冠との対象からすれば、空を覆う灰色もいくらかましだ、と女は思った。


「それ、一度やりませんでしたっけ」

 声が微かに怒気を孕んでいた。軽い調子で伝えるつもりだったのに、女は自分の声の低さに驚かされた。

 目の前の男はどこ吹く風といった様で、言われたことをおもむろにノートに書きつけた。

「はい、すみませんでした」

 入社から一週間が経ったというのに、薄い反応は変わらなかった。叱ろうとも褒めようとも、同じだった。微笑を浮かべて素直にはい、すみません、ありがとうございます、承知しました、と機械的に言葉を並べた。人当たりは悪くないが、型式張った対応パターンしか備えていない。

「一度で済むようにきちんとメモを取ってくださいね」

「はい。気をつけます」

 窓を濡らす雨は音もなく、執務室では常に誰かが顧客に対して謝罪する声が聞こえていた。

「はい、お願いしますね」

 コンプライアンスやガバナンスという言葉を頻繁に聞くようになったのは、ちょうど女が今の会社に勤め始めた頃だった。ブラック企業を決めるランキングや、セクハラやパワハラの告発、過労による自殺のニュースを聞かない日はないほどまでに、世の中のあらゆる会社が今までのやり方を改めざるを得ない時代を迎えていた。

 女の会社も重鎮の因循姑息な経営の転換を図ろうという黎明期を経て、着実に世の動きに順応したはずだった。

 カスタマーセンターだけがわずかに遅れを取っていた。マニュアルの整備は不完全で、口頭や手書きのメモで指導するのが当たり前で、仕事の後は上司の飲みの誘いを断ろうものなら、出世のチャンスを失うような、旧態依然とした組織だった。

 一部署とはいえ、大会社のカスタマーを担うに十分な規模のため、一フロア借り切っていた。女自身も、契約社員や派遣社員がどれだけいるか把握できていない。担当しているチームは主に企業向けの契約に関する問い合わせだった。個人の顧客に比べれば、問い合わせも常識的な内容が多い。それでもときどき罵声を耳にした。

 強さが必要なのだ。

 心を強く保つ術を心得ている者しか、部署には残らなかった。上司に顎で使われても苛立ちや屈辱を微塵もおもてに出さない者が、平気で他人を顎で使う上司になった。部署という小単位において築かれた文化は容易には変えられないらしかった。そうして女も強くなった。

 男は画面を見ながら手を止めた。女はその様子を後ろから見ていた。わからないことがあるならすぐに声をかけてほしい、そう言ったはずだった。男は手を止めたまま静かにうーんと唸り、どうすべきか思い悩んでいる。女は苛立ち始める。無意識に指がカタカタと椅子の肘置きを叩いていることに気づいて止めた。

 思わず口を挟んだ。

「何を悩んでいますか。わからないことがあったら、すぐ聞いてください」

 もはや苛立ちを隠すことすらしなかった。

「すみません。これってお伝えしても良いんですかね」

 昨日教えたはずのことだった。

「ノート、見ても良いですか」

 男が返事をする前にノートを取ると、ページをめくった。確かに教えたし、男はそれを汚い字で書き留めていた。

「ほら、ここ。ちゃんと自分でメモ取っているじゃないですか」

「はあ、そうでしたか」

 男はヘヘッと微笑を浮かべて、頭をかいていた。この期に及んで笑う理由が女には解せなかった。注意されてへらへらと笑う理由があるだろうか。かつて上司に叱られたときに、奥歯を固く噛み締めた記憶がよみがえってくる。休憩時間まで待って耐えて、トイレに駆け込み、息を殺して泣いた。目の前の男を見ていると、この男も同じように苦しむべきだと思った。

「どうして、笑っているんですか。今、注意しているんです。わかってますか?」

 雨は降り続けている。音もなく外も見えないのに、ブラインドの隙間から感じられる暗さだけでそれを知るには十分だった。

 東京の高層ビル。四十階超のフロアからは東京全体を見渡せそうなものだが、実際は同じくらいの高さのビルに囲まれ、容易には望めない。空に近い、と喜んだ新入社員の頃を思い出した。あの頃はよく、上司に連れられ飲みに行った。今では自分が人の上に立っている。部下を連れて飲みに行くことなどなかった。三十を目前にして、貯金はいつのまにか四桁を超えた。趣味のゲームと漫画、アニメのグッズを買う以外に、お金の使い道を見出せない。灰色の空のはるかかなたのどこかに地元があるのだろうかと、なんとなく思った。

「あはははは、ホント、ごめんなさい」

 男は翌日、出社しなかった。これで四人目、出世の道は途絶えた、と女は思った。


 今日も殺風景な駅で電車は停車する。太陽がいくらか慰みになるとの期待も裏切られて、雨は降り続けていた。

 ブラウスと肌の触れる吸い付くような感触が、誰かに触れられているような気持ち悪さに似ていた。

 こぬか雨の向こうに見える濃い緑と黒の陰影は物憂く、女を誘うように濃さを次第に増していく。風が吹くたびこずえが揺れ、雑木林全体が息を吸い込むようにふくらんだ。女はおもむろに電車を降りた。上空からは点ほどにしか見えないはずの小さな雑木林の陰影は、どっしりと大地に根ざしている。

 パオン、という警笛が短く鳴った。陰影はやがて落ち、散り、土の下でも深く息を吸う。女は点字ブロックの上に立って、すぐ目の前を死が通り過ぎるのを見送った。

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