姉妹
「覚えていることといったらそれくらいかな」
少女は女の肩に頭を乗せ目をつむり、ここではない場所へと向かおうとした。女は少女をまだ眠らせたくないらしく、肩を軽く揺らし、少女の手を強く握った。互いの冷たい手の柔らかい感触が、刹那の現実を作り出した。
「私はね、ほとんど聞いた話だけ。記憶というものがないの」
少女は女の意思を理解したのか、冷たいコンクリートにもたれかかりながら、夜の街の輝きに視線をずらした。薄く開けるまぶたの隙間から、明滅するほのかな人の営みを感じる。光の中で、人が生きている。目をつむるにはまだ早いのだ。深い夜はこっちから手を伸ばさずとも、自ずから訪れる。少女がそれを望むか望まないかにかかわらず、あっという間に空を藍で覆ってしまうのだから。慌てる必要などない。
「直接暴力を振るうようなことはしなかったの」
「そか」
「うん。間接的で、それこそその方が悪質なのかもしれないけど、言葉で母を痛めつけたり、机や棚を壊したり、硝子を割ったりってことがあったそうよ」
「うちより、いくらかましかもね」
と、少女は頷いた。
「うん。ましだと思う。少なくとも私は覚えていないから。母がよく話していたってだけでさ。話を聞くだけなら面白いんだけどね。母はそれで一度は壊れてしまったから」
と女は言って、自嘲気味に笑った。それに応じるように、少女はまた、静かに頷いた。
「たとえばね、こんなことがあった。ある日突然、父が車を買ってきたんだって。母には一言の相談もせずに」
「そりゃまた、大層なこった」
「あはは、そうなの。でねでね、それで母と口論になって、父が怒って家を出たんだって。まあそういうことはしばしばあったから、母はそんなに気にもしなかったそうなんだけど、問題はそのあと。父が車で出て向かったのは飲み屋でね。怒りに任せて飲んだんだろうね。帰り道で電信柱に突っ込んで、たったの一日で、飲酒運転で事故って廃車だってさあ。最初にそれを聞いた時、さすがに笑っちゃったよ。母はいたって真剣だったみたいだけどね」
「すごい、豪快だね」
と少女は笑った。
ふたりで遠い記憶に浸ると、途端に現実が希薄になった。目の前にひろがる夜の街灯りは赤や紫、ピンクなどの鮮烈な色彩にあふれているのに、すぐ隣に感じる熱ほど確かな感触はない。
夜の藍色にすべてが溶けていた。
夢の延長にある甘い微睡をふたりで貪り、溺れている。
酔っているだけかもしれない、と女は思う。
酔っているだけだろう、と少女は心の中で答える。
通じ合っているようで通じ合っていない。どこまでいっても届かないふたりは、誰よりも近くにいた。皮肉なようで、それがふたりには全てに思えた。
「そっちもなかなかなものじゃない」
「まあね。って、あなたのお父さんでもあるんだからね」
「まあ、そうね」
「お互い親には苦労させられるねえ」
「そうねえ」
少女はもう一度、女の肩にもたれかかった。
秋も終わりかけている。冷たい空気が、ふたりの間にあいた僅かな隙間に忍び込んでは、熱を奪った。手を繋いで、肩を寄せて、頭を預けて、それだけ近くにいるのに、それでも隙間に冷たい空気が忍び込んでくる。
これ以上近くなど、あるのだろうか。と、少女は疑問に思うと同時に悟る。近しい人を持ち、親しい人を持ち、それでも届かないものがあるのだ、と。
「私の場合はさ、血の繋がらない弟たちの存在が面倒だったな。お父さん以上に」
ふーん、と女は鼻で音を鳴らした。
「うん。お風呂とか、着替えとか、すごく嫌だったな。あっちはなにも意図してないのかもしれないし、悪意なんてなかったのかもしれないけど。私だって思春期の女の子だったんだからね。少し年下の異性が家にいるって、とても居心地が悪かった」
女は難しいことでも考え込むかように、首をかしげて見せた。
「……それって、私の弟ってことにもなるのかな」
少女は再び、軽やかに笑った。
「いや、ならないと思うよ。私の前のお母さんの連れ子だから、私にとってもお父さんにとっても他人だもん」
「そっか。私たち、随分と年齢が離れているし、同性で、良かったのかもね」
「うん。だから気安い」
「気楽」
「安心だよ」
「ね。まあ、本当に良かったのかは、まだわからないけれど……」
女は自分の肩にもたれかかる少女の頭に、自分の頬を乗せた。シャンプーの匂いがした。自分が使っているものと同じ。血が繋がっていないのに、似ている。少女は女の過去を生きている。女はそんな気がした。
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