男は狭い部屋から窓の外を見るかのように、女を見た。女からは部屋の中は見えない。男からは、女の部屋は見えない。互いの部屋をちらと覗き見ることすらできないのに、ふたりして外に出ようとはしない。

 そんな不都合な世界にふたりは生まれ、出会った。


 秋の冷たい朝に、雨の匂いを感じた。降ったのか、降るのか、降っているのか、男は気にもとめずに外へ出た。雨が肩を濡らした。傘をささず、線路を渡って駅へと続く坂をおりた。途中の蕎麦屋の向かいの家の庭には、百日紅が少し前まで咲いていたのに、いつのまにか花が散っている。枝にとまっていた四十雀たちも、もういない。男の目の前から、あらゆるものがものすごい速度で失われていく。時間は一様に流れるわけではないのだと、男はあらためて思い知らされる。すぐに冬が訪れ、春になり、夏を過ぎて、また秋を迎えるのだ。家に残してきた女のことを思ってから、すぐに忘れ、再び男は駅へと歩いた。

 女は目を覚ますと、ベッドの上で隣に熱のないことを知った。ゆっくりとからだをねじり、男がいたはずの空間を見つめる。皺の寄ったシーツが柔らかな朝の陰影を映している。それは、夜の名残のようにも思えた。ベッドから這い出ると、シーツのはしをつかみ、片側を挟み込んで、反対側を強く引っ張った。ピンと伸びたシーツが、朝の澄んだ光を吸い込む。と同時に、窓から吹き入った風を吸い込むと、微かに雨の匂いがした。夏の雨とは異なる、ほんのり冷たいにおいだった。

 電車の中には、言葉には表し難いざわめきがある。朝はとりわけうるさい。誰かが音を立てるわけではないのに、家にいえると隣や上に住む人の生活音が気になるように、多すぎる気配が常に男に語りかけてくる。男は部屋へと逃げ込む。イヤホンの音量を上げ、本を開き、文章を順に追っていく。言葉が頭に入らない。文字が紙上で虫のように動き出す。昨日の夜のことを思い出す。女に触れたことや、柔らかさや、熱を思い描く。男は男の部屋のなかで何度も女をからだを重ねるが、そこにいるのはいつも男だけだった。電車が走り始めると、それぞれの存在が小さくなっていく。誰もが部屋へ上手に閉じこもる方法を心得ている。邪魔をしない。干渉しない。それだけが、互いの正気を保つための唯一の方法だと、皆が承知しているのだった。

 少女たちの制服が、いつのまにか夏服から冬服に変わっていた。なのに、少年たちはいつまでも同じ制服を着ている。皺の残る白いシャツに、膝までまくった黒いズボン。大きなリュックを背負っているが、その中身はきっと、部活の荷物かなにかで、教科書はほとんど入っていないのだろう。と想像してみてから、女は自分の学生時代を思い出そうとした。思い出せない。かつてあったはずの時間は、そこ以外のどこかに流れ去った。昨日と今日、今日と明日が連続しているというのは思い込みに過ぎない。世界は不連続だ。時空間と記憶と現実は、ばらばらでいて絡み合っている。綺麗に解けば、数本の真っ直ぐな線になるのだろうか。それもあやしい。女の部屋に男が入れないのと同じで、他者が他者の時間に立ち入ることなど不可能なのだ。女は道ゆく人々をベランダから見下ろしながら、自分の部屋の壁を分厚く、頑丈なものへと変えていく。その部屋には、過去の自分すらも立ち入らせない。小さな、狭い、暗い、その部屋には。

 駅に到着すると、電車から人が機械的に吐き出され、再び吸い込まれていく。人は街に染み出し、大通り、横町、隘路を徐々に満たす。血液が血管を巡る様子と似ているのではないか、と男は考えてみてから、都市を生き物に喩えることをグロテスクだと気が付く。部分でしかない自分。血を流しても、生命は容易に途絶えない。都市が死ぬときには、絶えず血が流れ出すか、致命的に毒に侵されるか、神経回路が停止するか、のいずれかだ。男が失われることは、男の部屋の外にとってはかすり傷にも満たない程度の喪失なのだ。だが、ゼロではない。ゼロではない。部屋に残した女のことを思い浮かべた。女の部屋の窓からは、もしかしたら、男の部屋の様子が見えるのかもしれない。そんな期待を浮かべることにもまた、男は恐れを抱く。孤独を守った方が、絶対的な喪失からはうまく距離を取れる。自分を守ることが大切だ。

 買い物に出た。いつものスーパーは、朝、昼、晩と常に賑わう。空いているのは夕食時の夜七時ごろ。女は、その時間に行くことが多かった。スマホに「今日も行って良いか」とある。「うん、待ってる」と返す。男が部屋に着くのは、きっと夜の七時ごろになる。真昼の空いた時間、十二時過ぎのスーパーは、それでも混雑している。誰もが無遠慮に道を遮り、斜めに立ち入り、ときにぶつかり、傷つけあうことをが当たり前かのように互いの領分を侵食し合っていた。女はここでも、巧みに部屋に閉じこもった。音は聞こえない。誰に触れることもない。小さな、狭い、暗い部屋。だが、窓からはいつでも光がさした。眩しかった。カーテンを買わなきゃ、と女は思ったが、どこに売っているのかわからない。女は、男が仕事を終えるまで待つしかなかった。カーテンをどこで買えばいいのか、相談すると決めていた。

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