赤い公園

 団地の家の玄関扉の脇にはパイプスペースがあった。全部屋共通で、それぞれの階段から対称に配された間取りから、隣同士で向かい合うかたちでそれはあった。物置を兼ねたその空間は幅八十センチメートル、奥行きは一メートルほどで、高さは玄関扉と同じの百九十センチメートルはある。その白い鉄製の重たい開き戸にはご丁寧に半円形の把手と錠までついていて、内外から鍵をかけられる。大した作りだった。

 男が半円形の把手に手をかけ、引いた。中からものが溢れ出すのではないかといくらか恐れていたものの、崩れることもなくあっさり開いた。小さい頃に感じたような重みもなかった。中には錆の入った工具箱や家電製品の空箱、役目を終えた壊れたパソコンやモニター、ひび割れた木製バット、ぼろぼろのグローブなどがある。その一つひとつに見覚えのあるような気がした。幼少期に使ったであろうそれらの道具はやけに小さく見え、時間の経過を思い知らされた。

 随分と大きくなったものだと感慨に浸る暇もない。男は玄関の扉を開けると、白髪の老翁が背を丸めて、段ボールの中を覗き込んでいた。随分と小さくなった。さすがに、男は目を逸らした。

「ここも片付けるよ」

「ああ」

 気の抜けた返事を同意と受け取り、男はゴミとなった物置の品々を一つひとつ手に取っては、段ボール箱に詰めていった。

 ——ここで最後なのだ。

 友人の話によれば、不用品回収の業者は、最大一トンまではその品にかかわらず、定額で引き取ってくれるという触れ込みだった。

 男の父がひとりになってから五年と経っていないが、不要なもので足の踏み場もない部屋はゴミ屋敷といってもいいくらいで、家具やら家電やらを一個ずつ粗大ゴミやリサイクルに出すより、まとめて引き取ってもらったほうが安上がりだろうと友人から勧められたのだ。

 正解だった、と男は思った。それぞれ吟味してお金に変えようなどと考えていたら、何週間経っても片付かない。

 施設に入る日取りも決まっている。説得するのに費やした時間を思えば、せっかく決まったことを感傷と郷愁に引きずられて撤回されても困る。ここで終わりにする。男は固く決意していた。


 両親は共働きだったが、家のことの大半は母の領分だった。というより、男の父は何一つとして独力でできなかった。買い物から食事、掃除、洗濯。役所での手続きや、子供の学校に必要な給食費やら課外でかかる必要経費、クラブ活動の費用など、枚挙にいとまがない。父が家のことでなにをしたか、を探した方がずっと早い。しいていうならば、父が帰宅してから見るテレビは決まって野球だ、ということくらいで、母と男にとってはなんの役にも立たなかった。


 男は幼少期、何度も物置で眠ったことを今でも記憶している。物置の中身の大部分を外へ出したというのに、その空間ですら男のからだはおさまりそうになかった。中間の仕切り板を抜いてようやく全身がおさまるかどうかだが、もちろんそんなことしてみる気にはならなかった。

 物置で時間を過ごすのは、仕置きで入れられるのではなく、狭い空間が好きだったのと、鍵っ子であったために、鍵を忘れた日に遅くまで両親のどちらかの帰りを待たなければならず、そんな時に夏でも冬でも、物置の小さな空間にからだを丸くし、どちらかが帰るのを待った、というだけだった。

 暗い、狭い物置ですることなどない。なんとなく冷たいにおいがする。コンクリートが日中に外気を吸い込んで、夏は暑く、冬は寒い。とはいえ外で過ごすよりかはいくらかまし。使われることのないグローブや空気の抜けたサッカーボールを背もたれやまくらにし、心地よい形をさぐる。長時間二人が帰らないことなど年に一度が二度だ。その間、少年だった男のからだは成長し、毎回あたらしい眠り方を模索する必要があった。足のおさめどころ、頭のおさめどころ、腕のおさめどころを、ものの配置を少しずつ変化させながら、自分を空間に馴染ませる手段を学んだ。男は当時、自分の肉体が変化を続ける存在だという自覚がなかった。大人になって振り返ってみて、ようやく自分がかつて子供であったことを思い出し、さらには、自分の肉体が次第に衰えていくことを実感した。成熟した大人という時期はとうに過ぎ、時に生活に故障がでるほどの不調を感じることがあった。足腰だけではない、心の張りのようなものも失われた。目の前の白髪頭の男の顔には、深い皺が刻まれている。それがそのまま、会わなかった長い時間を表している。老い、という言葉では語り尽くせぬ変化がある。昨日と今日が同じではありえないように、今日と明日は同じではありえない。なのに、毎日が変わらない単調な日々に思えてくる。変化と平坦と、たまに訪れる小さな幸福と、こうして訪れた大きな悲しみと、一定の波が寄せては返すような落ち着いた人生などというものは、いつまで経っても手に入らない。

 男は思った。父には少なくとも、今までもこれから、それが訪れることはなさそうだ、と。

「あらかた済んだよ」

「ああ。ありがとう」

 ああ、としか言うことのなかった父の口から、男ははじめてありがとうという言葉を聞いた。自分のために呟かれた言葉ではない、と男は思った。既にここにいない人に対して、無造作に吐かれた言葉だった。

 男は苛立ちを覚えた。いくらか優しさを孕んだ、苛立ちを。

「どうして今更なんだよ」

 語気に怒気を含みながら、団地の外に声が漏れた。

「ああ」

 と同意したのか、白髪頭の男は曖昧に何度か頷いてから項垂れた。そうして、二度と顔をあげることはなかった。


「これで全部です」

「きっちり一トン未満ぎりぎり、上手なご利用方法で。お値段は見積もり通り、請求書を発行するので少々お待ちください。後日お振り込みいただきます」

「今でも構わないですか?」

「カード払いなどは私どもは承っておりませんが、現金でお持ちで?」

「ええ、用意してきましたから」

 廃品回収業者は、男にはどうにも不用品にしか見えない品々を修理するなり海外へ転売するなりして、お金に変えるという。現代の錬金術の使い手、というのが謳い文句らしく、友人からもそう聞いた。

 客は意外に、損をしたとは思わないものらしい、と男は自覚した。業者はものを選定する確かな目と売るべき適切な相手をわきまえている。一度は死に、物置の奥で隠れていた品々が、錬金術師の手によって魂を吹き込まれ、再び呼吸を始めるのだ。そう思えば、あのまま父の家に置いておくよりずっと良い。

 男は自らにそう言い聞かせるように、山積みになった品々から視線を外した。業者の男に支払うと、すぐに領収証を書いてくれた。一度倉庫に戻り、品をおろして、また別のところへ回収へ向かうのだという。彼は運転席に乗り込むと、なんの名残惜しさもないのだろう、赤いブレーキランプを二度光らせて、ぶるんと車体を震わせると、のろのろと走り出した。亀のように遅い歩みに、背負うものの重さがわかった。

 男は支払いの領収証を手にかたく握りながら、遠ざかっていく青いトラックを眺めていた。二棟並ぶ団地の建物の前を通り過ぎてその角を曲がると、ついには見えなくなった。


 団地の中央に位置する小さな公園から、子供たちの声が聞こえた。男が育った頃と同じように、ここに居を構え、家族を築く多くの人々が暮らしている。男は父のいる家には戻らず、公園へと歩みを向けた。子供の甲高い声が近づいてくる。耳障りに思ったこともある声が、懐かしく感じられる。家で待つ子供はもういないというのに、どこかに自分の子供がいるのではないかと期待してしまう。

 ——なんて、馬鹿なことだ。

 公園はボール遊びが禁止になっていた。近くのスポーツ少年団のサッカーや、野球クラブの活動でののボールの使用のみが許可されると、看板には記されていた。怒られるのを覚悟の上でか、子供たちは公園のベンチを二つ並べて、それをゴールにしてサッカーをしていた。小さな赤ん坊を連れた親の姿も目に映った。男は自分がそこにいるのはどう考えても場違いだと思った。不意に、胸ポケットに手が伸びた。ベンチで煙草でも吸っていれば、いくらか様になるのではないか、という浅はかな考えはたちまち子供たちの高い声に掻き消された。

 ——なんて、馬鹿なことだ。

 失われて戻らないものばかりを求めていた。失ったものの数と大きさを、自らの不幸の尺度にしていた。そうしてこの団地に戻ってきた。

 男は煙草は吸わずに、入り口の自動販売機でコーヒーを買って我慢した。

『コーヒーなんて飲むと余計に吸いたくなるんじゃないの』

 何度も言われた言葉を思い出したが、今は吸う気にはならない。ブラック、無糖の冷たいコーヒーを口にした。苦い。普段は微糖を飲む。煙草の代わりなのだから、ブラックが良いと思った。美味しくはなかった。三口ほど飲み、脚を組み替えた。ベンチの下を蟻がたくさん這っていた。ブンという蜂の羽音が近くに聞こえた。時間が巻き戻されたかのように、昔の感覚がよみがえってくるのに、いつまでもなにかが欠けている。欠けているという感覚こそが自分が大人になった証拠なのだと、男はその時はじめて知った。

 子供の見る世界の小さいこと、小さいがゆえに有限生のなかに無限の広がりを持っていたこと、空想世界と現実世界に境界線を持たなかったこと、そういうすべてが失われたものとしてそこにはあった。欠落を持つこと、埋める手段を持たないこと、それでも求めて生きること。男はこれから、それを数えながら生きる。

 立ち上がった。すっかり片付いた家に戻ることにした。父親ひとりを除いて、なにも残されていない家だとしても、確かに待つものがあると、男はもう知っていた。

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