おいてきたもの
男は女に、年齢すら問うことができなかった。
席から立ち上がり、ちらと女に視線をやったが、女の方ではそれに気が付く様子はない。男は椅子をデスクにおさめ、隣の席の同僚に一言告げて、執務室を出た。
誰もいない廊下に、男の靴音だけが響いた。その靴音が後ろから男を追い立てるような気がしたが、そこにいるのは男だけだった。まるで逃げるかのようにトイレに入ると、用を足すでもなく、洗面台に両手の平を乗せ、項垂れた。目をつむり、視界を閉ざして、呼吸が落ち着くのを待った。
顔をあげて目に映ったのは、三重半ばの冴えない男だった。マスクをしていればいくらか若くは見える。さらに髪を下ろせば女と同じ年頃に見えるかもしれない。だが、笑った時に刻まれる目尻の皺は、間違いなく長い年月を生きた、苦しんだ証に思えた。
——なにをやっているのだろうか。
休憩室の一画やエレベーターで女と二人きりになる時間はあった。男は何度も話しかけた。二言目、三言目が続かず、長い話にはならなかった。男は徐々に距離が縮まっていると思っていたし、他の同僚とは違う関係を築けていると思った。
男には、胸に燻るその感情が、恋愛なのかすら定かではなかった。ただ、魅力を感じた。おそらく十は離れているその女は、同僚でもある。同じ仕事をし、同じ給料で働いている。年長者であるのに、微塵もその優位を示せない。そうして何度も思うのだ。
——なにをやっているのだろうか。
汚れてもいない手をハンドソープで洗い、水で流した。
うがい用の小さな紙コップがあった。そこに水を入れ、口をゆすいだ。そして再び、目の前の鏡を見た。三十半ばの、疲れた顔した男が今もそこにいた。
——ちがう。俺は今まで、なにをやっていたのだろうか。
十年あれば何ができるだろうかと考えた。勉強。貯金。留学。転職。スキルアップにキャリアアップ。選択肢は無数にあるように思えた。だが、今それを持っているのは男ではなく、女の方だった。かつて持っていた時間を、男はなにに使っていたのか。男が女を思うたびに、消えた時間が足枷となって男を何度も思いとどまらせる。
——お前はあの女に相応しくない。
もう一度、汚れていないはずの手を洗ってから、トイレを出た。平日だというのに、誰もいない廊下を歩いていると、世界に自分一人しか残されていないのではないかと錯覚した。他にも誰かいたはずだ。多くの社員が在宅勤務になり、オフィスに人が少ないのは確かだった。執務室なら誰かいる。女だってそこにいるはずだ。男の不安はにわかに募り、大きく膨らみ身体をじんわりと覆い尽くした。
——重い。息ができない。
男が執務室に戻ると、やはり女はまるで気に掛ける様子もなく、淡々と仕事を続けていた。
男と同じで、女も職場では浮いていた。特定の人と一緒に過ごすことはなく、全員と絶妙な距離感を保ちながら、人間関係を築いていた。誰とも仲良くない代わりに、誰ともうまくやっている。一番都合の良い場所を心得ていた。
「戻りました」
男の声に、隣の席の同僚が小さく頷いて反応した。
席に座った男は、斜め後ろの女の気配をなんとなく意識した。男が戻ったことに気づいてすらいなさそうだった。
パソコンのロックを解除した。画面には直近のトランザクションデータがずらりと並んでいた。その中から、不正の基準に合致するものを目視で探す。プログラムによる条件分岐のみでは今のところ解決できない処理を、人の手で行っているのだ。たとえば登録住所の微妙な揺らぎと取引場所の不自然な移動などは、人の感覚の方が敏感に察知できる。
——だが、いずれは。
代替される。十分な教師データの蓄積されあれば、昨今のIT界隈の目覚ましい進歩を考慮すれば、自動化されるのは必然だった。今はただ、時間をかけて過去を蓄積している最中なのだ。すぐに人は追い越される。
——無用になる。
この十年だけではない。三十数年。男は時間に置き去りにされて来た。時間はいっそうとその速度を増していく。終わりが見えない。とどまるところがない。今がどんどん離れていく。そうしてきっと、触れられない距離までそれが遠かった時に死ぬ。男はぼんやりとそんなことを考えてから、斜め後ろを振り返った。偶然だろう、女もちょうど、男を見ていた。
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