午後の虹

 遅い朝食だったせいか、正午を過ぎたというのに、まだ食事の準備すら始めていなかった。

「なにを見てるの」

 いつもは窓側を背に、外からの柔らかな日差しを背に本を読む男が、今日に限って反対を向いて、ただ空を見ていた。

「当ててごらん」

「空」

「そらそうだけど」

「じゃあ雲」

「まあそうかな」

「正解なの?」

「うん、まあ正解」

 女は男のはっきりしない態度に苛立つこともなく、悠長に茶を淹れていた。

「僕ももらっていい?」

「もちろん」

 女は男の分も用意した。平日の朝であれば、こだわりの強い男の凝ったコーヒーを飲むが、休日の昼はこうして女の紅茶を飲むことが多い。アップルティーやピーチティー、ベリーティーと、香りのついたものを女は好んだ。男は部屋を満たす紅茶の香りを感じると、今日はアップルティーか、と鼻でどの紅茶か判定し、当たると勝手に満足した。

「正確に言うとね、虹が出ることを期待して空を見ているんだよ」

 大きな雲が速い速度で動きながらも、ところどころ青い空が覗いて見える。確かにこの様子であれば、どこかで雨が降り、どこかで日が差しそうなものだと思った。女は床にあぐらをかいて座ると、「んっ」と言って、隣の男にカップを手渡した。

「虹、出ないと思うよ」

 女は淡白に応じた。

 近くで雨は降っていないものの、空気は湿って重たい。外に出て散歩をする気分にもなれないため、昨日は遅くまで映画を見て、今日は十時頃に目覚めて遅い朝食を取り、こうしてなにもしないまま午後になったのだ。

「出ないっていったら、本当にでなくなるじゃん」

 女は紅茶を口にしながら、鼻だけで「ん」っと返事をした。同意したのか、不同意なのか、男にはわからない。女はカップを床に置くと、両手をつっかえ棒のようにして、上体をわずかにのけぞらせた。

「そういうことじゃなくってさ。この空には出ない、ってこと。私たちの空は南側。太陽の方角だから」

「ああ、え。……うん」

 女は手で自分の体重を支えているのも疲れ、男がからだをうずめる大きなクッションに、一緒になって無理やりからだを預けた。半ば、男に寄りかかっていた。

「太陽の光を反射、屈折するから虹が見えるんでしょ。だから太陽の出る方角に虹が出ることはないよ」

「……そっか」

 理解したのかしていないのか、女にはわからない。

 二人はこうして十年以上も一緒に過ごしているのに、互いの考えていることがわからないと感じることが今でもある。わからない、ということを受け入れてもいる。だから一緒にいて心地が良いと感じる関係なのだ。二人は、互いを完全には理解し合えないことを、互いに理解し合えている。

 二人の体温がクッションの上で混じり合う。熱くも寒くもない、快適な午後だった。まだ空腹はない。女がからだをねじり、窓とは反対方向の壁に掛けられた時計を見ると、分針は垂直に、時針はそこから六十度傾いた位置にあった。ぴったり。

「もう二時だよ。さすがにそろそろ、お昼食べる?」

 男は女とは反対側の腕を、女を抱く形でまわして、体をひねった。時計は午後二時を示していた。男は「そうか」と呟くと、唐突に立ち上がった。

「どうしたの?」

「なるほど、太陽とは反対側に虹は出るんだね」

 そう言うとすぐに部屋を出た。男が玄関を開くと、ふわっと外のにおいが家の中に吹き込むのがわかった。女はそのにおいに誘われるかのように、男のあとを追いかけ、廊下を抜けた。

 玄関を開けた。二人と空を隔てるものはなにもない。そこには二重の虹が架かっている。どこかで雨が降っているのだろう、ひんやりとした空気が肌に心地よい。部屋のなかにこもっていては気がつかなかったはずの虹を、男が見つけた。

「どうして出てるってわかったの」

「だって、太陽の反対側にあるって。にじ」

「うん」

 女には男のいうことがわからない。男には、男のいうことが女にはわからないことがわからない。わからない二人は、交差することのない二重の虹を見た。

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