蜜蜂と蝶

 水曜日は契約が流れるといって、縁起をかついで不動産業は休日なのだという。男は朝目を覚ますと、窓の外が雨だと知った。遠くの景色は薄い灰色にぼやけ、ベランダから手の届きそうな距離にある電線から、ぽたっ、ぽたっと水が滴っていた。雨の日に出勤するのも憂鬱だが、休日が雨でつぶれてしまうのは、それ以上に憂鬱だった。

 男は晴れたら海まで出てみるつもりだった。越してきたばかりの街の散策もしてみたかった。朝起きて電車で海に出て、ビールを一杯か二杯飲み、昼過ぎに戻り、近所の惣菜店やらパン屋なんかを回る予定でいた。天気は思い通りにはいかない。昨晩の酒の抜け切らない気怠さと共に、重たい頭をなんとか起こして、睨むように灰色の空を見た。舌打ちをしてから立ち上がり、洗面所で顔を洗った。鏡の前に、昨日とあまり変わらない自分を見出した。

 ——変化の必要がある。


 都心からは程よく遠く、田舎ともいえない程度に栄えた駅前の新しい住居は簡素で味気ない。ベッドと机が一つ。冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、電子レンジなどの生活に最低限必要な家電をひととおり揃えて、他にものは置かなかった。キッチンと居室のみ。服も多く持っていない。スーツが二着と、普段着が三着ほどに、ワイシャツ、コート。ワンルーム付属の小さなクローゼットで事足りた。

 引っ越しも容易い。というより、独力でできる。軽トラをレンタルして、アプリで人も一人レンタルし、二万円もかからないし、ほとんど一日で完結した。

 土地が変われば人も変わるし、街の空気も変わる。男は変化を求めて、新しい街へ越したのだった。


 海を諦め、美術館に行くことにした。

 以前何度かそこは訪れたことがあったが、越してからはまだないが、距離が遥かに近くなった。

 電車でたったの二駅。駅から繁華街を抜けて行くと、大通りにあたる。そこをさらに越え、細い坂道を下っていく途中、秋に金木犀が香る。さらに下ってくぬぎのまんまる太ったどんぐりが道に転がるあたりで坂が終わり、森の湿った空気と微かな陰鬱さが漂いはじめる。美術館の入り口だった。

 美術館の裏手には広場と雑木林があり、春には桜が咲き、秋にはくぬぎやこならが実をつける。冬に雪は滅多に降らない。夏は広場の中央に聳える、妙な形をした噴水から水が流れ、あたりを子供たちが濡れながら駆け回る。春夏秋冬、様々な表情を見せたが、何度訪れても、男にとってはなぜか懐かしく感じられた。

 受け付けで企画展のチケットを買った。こじんまりとした展示で、これといって見応えは感じられなかった。中世の絵画は職人仕事のように精緻ではあるものの、ある種の狂気や毒気を伴う、甘美な感覚に欠けた。男は身の内に毒と甘みをたっぷり溜め込み、吐き出したかった。毎日単調な仕事をするなかで得られるのは、単調な甘みだけ。不足しているのは、毒と刺激だ。

 展覧室を出て、ついでに併設された常設展へと足を向けた。過去に見たことのある作品が並んでいた。平日の昼間、しかも午前中となれば、人は少ない。だからこそ、目立って見えた。

 女は凛とした立ち姿で、一枚の絵の前に立っていた。世紀末の画家の作品で、人々が川で水浴びをする姿の描かれたものだった。男も以前、その作品を見たことがあった。

 青々と茂る草の上で濡れたからだを拭う少女。若い肌は水を弾き、太陽の光を反射している。高い石から水へと飛び込む少年のからだはしなやかな筋肉に覆われ、水底に吸い込まれようとしている。下で待つのは、その少年の親ほどの年齢の男女で、水のなかでその底をじっと眺めている。冴えざえと晴れた空の下で水浴びをする人々の姿は官能的というより、溌剌とした清らかさを感じさせる。とりわけ少女と少年は、その若さを鮮烈な生の輝きと共に描き出されていた。

 女は絵の前に立ってはいるが、見ているのかどうかわからなかった。男は展覧室の中央に鎮座するベンチに腰掛けると、なんとはなしに視界の端に彼女をしばしおさめていた。

 やがて女は去った。男も立ち上がると、女を追うのではなく、女の見ていた絵の前に立った。

 全体的に画面は明るい。深い空の青はラピスラズリを水簸によって細かな粒子をよりわけ、特殊な加工の施された青だという。故に、やや薄い。その青の薄さこそが、地上の草の濃い緑や、花の黄や赤とで、色と光の対照を成している。

 前に見た時には気づかなかったが、岸には老人や赤子もいて、人の一生が一枚のキャンバスの上に表現されていることが明らかだ。そして川は時の移ろいと変化、そしてそこで変わらないものを表している。

 そして男はふと視線を絵から外して、女が向かった次の展示室を見た。もう誰もいなかった。視線を絵に戻すと、川の澱みだけが暗い。そうか、と男は納得した。そこだけ、水の流れが止まっているのだ。

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