色彩とそらの音

 少年が美術室の引き戸を開けると、六つ並ぶ大きな机のひとつに、寝そべる少女の姿があった。手にする絵筆は濡れてすらおらず、絵を描く気はないらしいことはすぐにわかった。いつものことだ。それでもただ無闇矢鱈と宙をかき混ぜて、自分にしか見えない作品を描いているとでもいわんばかりに尊大な様を、誰もいない教室で、学校に骨を埋めた亡霊たちに見せつけていた。

 少年は戸を閉めると、自分が入ってきたことを少女に知らせるためか、ぺたぺたと足音を響かせた。

「ジャクソン・ポロックの作品って、どこか音楽的だよね」

「私は指揮者じゃないわ」

 言葉の意図を察しての返答に、少年は嬉しくなるのを押し殺しながら続けた。

「即興的に過ぎるからね。自由で、優雅で、少し傲慢さを備えていて。絵そのものより、どちらかといえばその描く姿に僕は魅了されたな。煙草をくわえてさ、ぴしゃっ、ぴしゃって筆先のインクを弾き飛ばす様がなんだか不遜で、誰も俺の作品の真価を理解していないって不満を述べているみたいでさ、歩み寄ろうとしている鑑賞者をまるで拒絶するみたいで。それがなんとなくかわいいなって思うな」

「なにそれ、告白のつもり?」

 少年は眉を顰めた。好きだが、好きだと言ったつもりはない。少年が以前ポロックの所作をオーケストラの指揮者に例えたことを少女が覚えていたために、つい喜んでしまった。少したがが外れただけだ。と、自分自身に言い訳するかのように、少年はそんなことを思った。

 少年の思いを知ってか知らずか、少女は相変わらず絵筆を指揮棒のように軽やかに振り回しながら、宙に音楽を描いていた。春のように華やかなピンクや赤、夏のようにもったりとした緑やふかい群青、秋のように穏やかな橙、冬のように透明な白百合色で描くそれが、まだ少年には一度も聞こえなかった。

「違うよ」

 少年は六つ並ぶ大きな机のうち、少女と頭の天辺を向き合わせる位置にあおむけで寝そべった。頭と頭は椅子が二つと僅かに人が通れる隙間を足した分だけ離れていた。少女の音楽を聞くには、まだ遠い。

「なあんだ。つまんないの」

 そう言いながらも、少女の手はいかにも楽しそうに宙をひらひらと舞っていた。蝶が風と戯れるように奏でる音楽はどんな鮮やかな色彩で世界を象るのだろう。少年は妖艶な手の動きに魅せらせながらも、自らが描くべき絵をそこに見ようとした。見えないものは、描けない。まずは見ることから始めなければならない。見るためには、目で見るだけでは足りないのだ。

「で、今日は描くの?」

 軽い調子で少女が言った。

「描くよ。僕は美術部だからね」

「なにそれ。私だって美術部だよ」

「皆勤幽霊部員だけどね」

「あはは。なにそれえ。矛盾してるよお」

 乾いた風が窓から吹き込んだ。秋の匂いがする。学校の裏手にある小さな公園から金木犀が香るのだった。一度場所を把握してしまえば、金木犀を探せ、と街を徘徊するような遊びもできない。

 少年には、この通い慣れた場所の当たり前の秋が、なんだか退屈に思えた。今年も来年も、きっとそこには変わらない秋がある。退屈だと思いながらも、同時に、悪くないとも思った。

「だって、君は一度だってここでなにかを作ったことがないじゃんか」

「ん、それはどうだろうか」

 少女の手の動きがとまった。そして細い指先をたくみに繰り、絵筆を持ち変えると、まるで猫や犬がひとの脚の間を動き回るかのように、それがくるくる指の周りを回り始めた。絵を一枚も描かないうちに、いつの間にかペン回しならぬ筆回しだけが立派に上達していた。

 少年はなんとなく、その手の動きを目で追っていた。指が生きているのか、絵筆が生きているのか区別がつかなかった。そのうち軽やかな指先の動きが、にわかに少年の視界から消えた。少女は上半身を起こし、まっすぐ少年に向き直った。

「私だって、ちゃんと作ってると思うけどな」

 必ず一つは入部しなければならないという学校の伝統のため、美術部の部員は十名を超えたが、放課後、少年のように毎日美術室に顔を出す部員は少女を除いて他にいなかった。それでも他の美術部員は曲がりなりにも作品を作り上げたし、中学生向けのコンペに出した部員だっていた。真面目や熱心、という言葉とは程遠い部員がほとんどだったが、活動をしないのに皆勤という少女もまたおかしい。作らないなら、作らないで済む部活もあるはずだった。

 ——ならば、なぜ少女は美術部を選んだのだ。

 疑問の答えがそこにあるかもしれないという期待と共に、少年は上体を持ち上げ、少女の方へと向き直った。

「なにを?」

 と、当然ながら問うた。

「それは、今から考える」

 と、少女は答えた。

 少女はその日、机上で絵筆をもてあそんで放課後の二時間を過ごした。少年は描いた。そしていつも通り、描いたものに満足の行く線や色彩を見出すことはできなかった。


 正門を出ると、向かいの高校からも生徒が出てくるのが見えた。県内屈指の公立の進学校ともなれば、出てくる生徒もどこか秀才らしいのが不思議だ。校名を挙げれば県内で知らないものはいない。評判に劣らず品行方正、身なりや所作すら妙な風格を備えているようだった。少年少女はその学校を第一志望としていた。

「塾行くの?」

「うん、行く」

 二人は塾も同じ、部活も同じ、住んでいる家も近い。幼馴染の類かと問われれば、否、少年が越して来たのは小学校高学年の頃のことだったし、少女は私立の小学校に通っていた。

 出会ったのは中学のこと。新入生で美術部一番乗りだと思っていた少年よりも早く入部したのが少女だった。律儀に毎日筆を取る少年と、一度だって筆を取らない少女は、それから必ず週に五日は顔を合わせ、それももう二年半ほどになる。

「絵は、描けた?」

「描けない。色と点と線。陰影。強弱。配置。単純なことの組み合わせに過ぎないのに、どうしてもそこに相応しい色や光、線、点が見えてこないんだよね。なんでかわからんけど」

「ふーん」

 興味があって問うた訳でもないのか、少女はいたずらに流れる長い黒髪を手でおさえると、つるっと先端にむけてそれを撫でてから、指に一周からみつかせて、するっと解いた。艶のある髪が夕日を弾いて、少年の瞳に眩しく映った。

「そっちは、なにか描けた?」

「まあまあかな」

「いや、ずっと寝てただけでしょ」

「えへへ、バレてたかあ」

 あどけない秋の会話だった。冬の準備期間でもあり、春と錯覚することもある季節だった。なんとなく解けてしまう空や季節の色彩は、その調和と混淆から如何にして美しさを具現化するのだろう。少年が絵を描くには、絵を描くだけでは届かない。頭の中は描くことでいっぱいだった。好きな女の子が隣にいることすら、少年には描く上での糧でしかないのだ。

 少女が足を止めると同時に、少年も足を止めた。

 二人は建物の隙間から、藍が染める東の遠い空を見た。少女はそれを見逃すほど惚けてはいない。目ざとく美しい情景を見出しては、少年に示した。少年はいくらか惚けていた。次第に少女の感覚に引きずられるようにして、瞬間が見せる美しさを逃さぬ注意深さと抜け目なさが育てられた。二年半で、確かにその感覚を自分のものにしてしまったのだ。

「こりゃまた、出たねえ」

「ほんと、こりゃまたすごい空。雲。街灯がいくらか邪魔だけどさ」

「それは脳内補完で完全性をそこに創造してくれやあ」

「おけ。任せとけ」

「ああ、頼んだ」

 鮮やかな色彩と完璧さを備えた線を自然に描き出す神に感謝するとともに、少年は、心底それを恨んだ。見えるのに届かない、ということほどもどかしく、苦しいものなど、他にない。



 少女が落ちたと聞いた時、美術室で遊んでばかりいるからだ、と少年は恨み言を口にしたくなった。少年はもちろん、そんなことは言わなかった。少女はごめん、と謝った。いいよ、と乾いた言葉が口からこぼれ、言いたいことはそんなことではないのだと後悔した。後悔した瞬間から、見上げた空から色彩が抜け、単調な毎日だったはずの過去が鮮やかな記憶の数々で染められた。

 ——ああ、今なら描ける。

 卒業を前に、少女は美術室を訪れなくなった。少年は相変わらず毎日美術室に顔を出し、誰もいない部屋でひたすら絵筆を振るった。描かれる点と線が、ここにいる自分とここにいない誰かとを繋ぐものと信じ、そこでしかありえない位置に、それでしかありえない色を並べた。

 それは空だった。

 そこから音楽の聞こえる空を、少年ははじめて描くことができた。ずっと聞きたかった音楽、触れたかった色彩がそこにはある。思いのほか心は静かだ。少女と見た空、数多の空がその一枚に重なっていた。

 ふと見た窓の外の夕闇は、少女が最後にこの部屋を訪れた時よりずっと明るく見えた。日が長くなった。喜びが心の底からじんわりと滲むのがわかった。熱を発して、芯から熱くなる。穏やかな鼓動が、耳の奥でリズムを刻む。

 自分と他者の音がはじめて重なり合った。

 その音の感触を味わい尽くす。目で耳で、指先で、心で。独りで。どこまでも孤独であることを知り、その絶望と、同時に希望にも似た光を見た。見たならば、見えたならば、少年は再び描かざるを得ないのだ。少女が共にいなくとも。

 ああ、と少年は声をあげた。少年の声に応じるかのように、外でカラスが高い声で鳴くのが聞こえた。少年は、まだその音の響く美術室を後にした。

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