遅延

『○○線が人身事故で電車遅延のため、遅刻いたします』

 チャットツールに並ぶ似たような短文で、電車が遅れていることを知った。

 女はオフィス近くのカフェで朝食をとりながら、スキルアップのため、始業時間までの一時間半ほど学習にあてていた。

 最もシンプルなのが語学の学習だった。英語、という国外のほとんどの国でおおむね通じる言語を学ぶのは、この国の人間という殻を一枚脱ぎ捨てるのに、もっとも容易な手段に思えた。国際交流のできるアプリで、南米や欧州の人と知り合い、さまざまな価値観があることを知った。とあるブラジル人は、極端なほどのアルゼンチン嫌いだった。というのも、彼はサッカーに夢中で、永遠のライバルともいえるであろう隣国、アルゼンチンをたったそれだけの理由で嫌悪していた。とあるフランス人は、この国で差別されたことをほんのりエスプリを混ぜ込んで笑いに変えていた。とあるドイツ人は、ほとんど喧嘩するかのような口調で他国出身の人々と極めて理路整然とした議論を交わしていた。そういう出会いに行き着いたのも、ほんの一時間半程度の短い学習がきっかけになったと思えば、学ぶことの人生に与える価値は大きい、と女は思った。

 今は、仕事に直接役立つ法律関連の勉強に力を入れている。視野や価値観を広げる役には立ちそうになかったが、これはこれで法の実用的な側面を感じられ、自分や他者がどのように社会によって制約されているのかを知る、良い機会だと思った。

『人身事故で遅延してます。遅れます』

 スマホの通知は切っていた。バッジに表示された数字が増えていく。一路線しか通っていないため、上りの電車を使う社員は皆、同様に遅れることになる。一つの人身事故が、多くの人の生活を遅らせる。その背後に、永遠に止まった時間があることなど忘れて人は、遅延した時間に憤ったり、仕事や学校をほんの束の間サボれると喜んだりしている。SNSのTLに流れてくる情報は、女を陰鬱な気分にさせた。誰も彼も、毎日のように誰かが死んだ線路を足蹴にして通勤しているというのに微塵も気に留めない。女だってその一人だ。だが、覚えていることがひとつだけある。


 中学二年。二学期の始業式の日だった。

 女の記憶の中では、始業時間だというのに先生たちがあわただしく走り回っていたことだ。誰かが自殺した。先生たちの間で箝口令が敷かれていたいたにもかかわらず、噂はどこからか漏れ出した。親、教師、生徒。その三者間で情報を閉ざせるような完全な箝口令など不可能だ。いずれ漏れるならば、最初から公にするのが得策だった。

「A組の女子らしいよ。いじめだってさ」

 潜めたはずの声はどこか興奮をはらんでいた。誰もが落ち着かなかった。その子のことをよく知るという女子のひとりが泣き出した。そこを中心に、不安定な感情の感染が広がって行った。関係もないのに泣き出す生徒や、だからどうした自分には関係ないと嘯く生徒、感情の輪からとりのこされてぼうと口を半開きにする生徒。いつもの思春期の混乱とは異なる、不気味なほど昂った喜怒哀楽が教室内で渦となって蠢いていた。

「すぐに体育館に集まってください」

 担任が教室の扉を開け、半分だけ顔を出して叫んだ。

 どうやら、他のクラスの生徒たちもすでに知っていたらしい。A組を除く生徒たちの顔には、退屈な学校生活が破られるという期待と不安が表れていた。人が死んだ。自殺したらしい。あらゆる子供にとって、起こり得なそうな想像が唐突に自分たちの現実のなかで起こった。それは先生たちも同じだった。いじめを看過したのはA組の担任だけではなく、A組の授業を受け持っていた先生すべてだ。あるいは、他にも気づいていた先生はいたかもしれない。

 ——ならば、なぜなにもしなかったのか、できなかったのか。


 女はテキストを閉じ、チャットアプリを開いて遅延の報告を眺めた。一件ごとにどこかで誰かが死んでいるような気がした。実際はきっと、もっと早いペースで、どこかで誰かが死んでいるはずだった。遅れます、という言葉がいやに軽く感じられるのは、その背後に耐え難いほどあっさりと死んだ誰かがいるからだろう。さきほどまで温かかったからだが、車両の下敷きになってぐちゃぐちゃに潰れる様を想像してみても、悲しみは湧いてはこない。人はまた生まれる。こうして死んで、生まれてを何度も繰り返しながら社会というシステムだけが死なずに駆動し続ける。法律は、そのシステムを動かすロジックの一つだろう。だとしたら、システムにあらがわないように上手に生きるためには、この勉強もいくらか有益なはずだ。と女は思った。

 人間の冷淡さに悪寒が走る。人間、という以上に自分の冷淡さに。からだに熱を抱いていると生きづらい。だから冷やす。心もきっと同じだ。熱く燃えている瞬間の興奮や歓喜はどこか病的で、平常心を保とうと免疫が心の細菌やウイルスを除去しようとしているのだろう。心の毒。他人の死を正面から受け止めることは、一種の毒だ。だから平然と踏みつけにして生きる。

 女は空になったグラスを握った。残った氷が冷たかった。掌から熱が逃げていく。氷と体温が近づいていく。安心する。私は平常心でいられる。私は狂ってはいない。この世界も狂ってはいない。死は単に生の延長線上にある、ひとつの点だ。人の死も他人の死も、恐れる必要はない。静謐が待つだけだ。今聞くような、心のざわめきのない世界だ。静謐すらもない。なにもない世界だ。安心する。体温が奪われていく。生が遠ざかっていく。生きていなければ、死ぬこともないのだろう。

 しんと静まり返った店内に、からんと氷の転がる音が響いた。ちょうどBGMの切れ目だった。遠くの踏切のカンカンと甲高い音が届いた。女はもうひとつ思い出した。


「あんたはね、知らんおじさんに命を助けられたんだよ」

 と、女の母は言っていた。

 物心もつかぬ頃のことだという。母に伴って外出した。

 おぶられていたわけでも、ベビーカーに乗っていたわけでもないらしい。女は母の手を握っていたはずだった。母に何度も聞かされた話だから、はじめは記憶になかった情景も、確かにそうだったような映像が思い浮かんだ。女の記憶が母の言葉で作られたのだ。

 母は踏切から少し離れた交差点で、偶然会った友人と話し込んでいた。少女——かつての女のことだが——は、母の手を離して、角の花屋へ駆けて行った。

「遠くに行かないでね」

 少女はうんと頷いた。花屋にならぶ鈴蘭の小さな白い花に鼻を寄せてみたり、ブーケを手にしてガラスの前に立ってみたりして、すぐに飽きた。隣の二畳ほどの小さな鍵屋を覗いて、胡麻塩頭の親父がチッと舌打ちしたのを聞いて逃げた。どこからかカンカンカンカンカンという賑やかな音が聞こえた。音楽の始まる音だと思った。少女は音の方へと駆け出した。少女の前を黄色と黒の縞模様の棒が斜めに下り、通るのを邪魔しようとした。が、少女の身長ならば頭を屈めればくぐれる。地響きが聞こえた。神輿だ、と少女は思った。幼稚園で担いだことがある。あれは小さな子供用だったが、今度は大きな男の人たちが担ぐ、本物の神輿だ。ゴゴゴゴゴゴゴと低い音が近づいてくる。胸が高鳴る、と同時に、毛むくじゃらの大きな腕が少女をがっしり掴み、踏切内から引き摺り出した。きゃーっと少女は叫んだ。神輿が来るのを近くで見たかった。唐突に現れた見知らぬ手を引っ掻いた。ようやく母が気づき、少女の名前を呼んで駆けて来た。どうやら母は一瞬にしてことの次第を理解したらしく、胡麻塩頭の親父に平謝りしていた。親父はチッと舌打ちし、また小さな鍵屋に帰って行った。

「それからあの鍵屋さんは懇意にしてたんだけどね、そう鍵屋さんに頼むことなんてないから。行ったのは二度三度かしら。あなたが小学生の頃にはもう、潰れちゃったのよね」


 ピロン、と通知音が鳴った。仕事ではなく、プライベートの通知だった。

『昨日の分は埋め合わせるから』

 男からのメッセージを読んだが、返事は送らなかった。過去を埋め合わせる、そんな都合のいい話があるわけない。女は再び、テキストを開いた。

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